動詞としての「いのち」を味わう
しばらくのあいだ、noteをおやすみしていた。
正確には、一度はnoteでの活動は完全に完了させようと思ったものの、不定期でお送りしているおたより(メールマガジン)だけはnoteでも配信を続けていた。
その間わたしたちは、渡り鳥のようにバリ島ウブドからあたたかくなり始めた日本に戻った。
キッチンにはあたらしいあかりが灯り、
お仏壇を置くための場所には山の景色が見える窓ができた。
オランダに置いていた本たちが届き、本棚があった場所がくつろぎの図書スペースになった。
庭に甥と姪と植えた花桃の木は花が終わり、葉が増え実がなって、さらにまた葉がしげりはじめている。
庭の端に作ったハーブガーデンに植えたジャーマンカモミールの種から芽が出たものの、虫に食べられたのか全部消えてしまい、もう一度植えた種から出た芽も気づけばやはりどこかに消えてしまった。
食の大切さと植物の力に目覚めたわたしは毎日せっせと三食ごはんを作っては食べ、ガーデニングに目覚めたピーターさんは毎日せっせと山から花や植物を取ってきては庭に植え、庭に作った小さな池にかけたカバーをめくって頭を突っ込んでは満足そうに小さな生態系を眺めている。
そして、猫たちがやってきた。
あんなに朝の布団のあたたかさの誘惑に勝てなかったのに、まどろみを振り切ってシャッキっと布団を出るができるようになったのだから、猫の力はすごい。
noteを始める前の自分も、noteにあれこれと書いてきた5年間の自分も、もう別の人生のようだ。
そんな感覚があるけれど、わたしはやっぱり言葉が好きで、言葉を綴るのも好きなのだと気づいた。
「自分のため」の向こう側に「誰かのため」が生まれるといいなと思ってnoteを綴ってきたけれど、これからは誰のためでもなく、日々のことを置いていきたい。
これまでのわたしだったらきっと「別のアカウントを作ってあたらしく始める」という選択をしていただろう。
「突然内容が変わったらフォローしてくれている人が混乱するかもしれない」とか、「誰も自分のことを知らない方が自由に表現できるだろう」とか、色々な理由をつけて。
確かにそちらの方が都合がいいこともあるかもしれないけれど、今回はそうじゃない道を選んでみたい。
好きな歌の一節が浮かぶ。
「日々のことを綴る」というのは「暮らしを綴る」ということになるだろうけれど、「暮らし」という言葉が最近ピンとこない。
たとえば「丁寧な暮らし」という言葉。。実際そこにあるのは、「日々、目の前の小さなことに意識を向けて暮らす」という営みだ。
それなのに「丁寧な暮らし」というとどこかで「これが丁寧な暮らしです」と写真に撮って人に見せられるような状態があるような気がしてしまう。
言葉は物事を伝えることにおいては便利だが、その中で本来、「とある方向に向かおうとするプロセス」であるはずのものや「何かを大切にしてとり組み続けること」のようなものが、「とある状態に到達していること」のように認識されてしまっているのではないかと思う。
「いのち」も、何か特定のものがそこにあるのではなくて、生きようとするプロセスそのものなのではないだろうか。
ついでに言うと屋号の「あわい」も、「何かと何かのあいだ」や「何かと何かが重なり合うところ」だと認識してきたが、それは固定された場や範囲ではなく、常に揺らぎ変化しているものであって、動的なものなのだと最近思うようになった。
「パートナーシップ」も、何か特定の状態を指すというよりも関係者が「『わたし』と『あなた』をともに大切にしながら『わたしたち』を築いていこうとする営み」なのではないかと思ったりする。
いずれにしろ、綴っていきたいのは生きているプロセスそのものだ。
そこにはいくつもの矛盾もあれば葛藤もある。
よろこびもあればかなしみもあるし、調和もあれば不調和もある。
大きな世界に目を向けることもあるかもしれないけれど、大抵は半径10mくらいのことだろう。(大半は猫のことかもしれない)
コーチングや対話に想いを巡らせることもあるかもしれないけれど、生きることや暮らすことについて考えることの方が多いかもしれない。
ひとつの場所で何かを育むこともあれば、旅に出てあたらしい景色に出会うこともあるだろう。
言葉を超えたものを言葉に留めておこうとするのだから、表現しきれないこともあるだろう。
それでも、綴ることを通じて、動詞としての「いのち」を、生きることそのものを、さらに味わっていければと思う。
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