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日吉寮にて。

1994年度前期に私に割り当てられた部屋番号は「111」

中国語読みをすると「要要要」(欲しい、必要)
大学の第二外国語は私は中国語を取りました。
あとあとにもつながっているので京女でのこと、当時所属をしていたことのある京大のインカレサークルでのことは私の「グラウンド0」とかとして覚えていたり、思い出したりを語っています。
そのうち「退廃的な初めての両想いの恋」とかの話もしますのでお楽しみに…(^。^)

部屋は4人部屋で、私以外は全員短大に地方から”遊学”で来ていた人たち
(そのうち1人は四国からの短大生で私たち3人より上級で先輩、あと1人は三重県からで”高卒社会人の彼氏”と「デキ婚で駆け落ちをしてでも”既成事実”として何が何でも結婚するとかなんとか言っていたような”大人っぽくて派手”な人、もう1人はとにかく意地悪で顔も真っ黒で体も小さくて、私と母は彼女のことは「イモ」って呼んでいました)
とも、始めの頃は挨拶もかねて自己紹介、寮の最上階にあった仏間でも文学部史学科の同級生(私を入れて8人)と自己紹介、挨拶とか実家の住所の交換をしたりとかもして穏やかで平穏ではありましたが

私と同室だった九州からの短大(当時は「ひまぞー(”暇造”)授業のコマ数が少なかったとかでこう呼ばれていたらしいです)の人たちがとにかく「ホームシック」とかで連日うるさくて、うるさい子供みたいな人もいて、
彼女らと私は決して仲良くはなかったですが、週末の土日とかには同室の同級同士と一緒に三年坂とか二年坂、黄檗宗万福寺とか四条河原町とかにも遊びに行ったりもしていました。

私も「ホームシック」とかで実家の母にしょっちゅう、頻繁に電話をしたりしていて、
実家では「家を出た意味がない」とかとかでしょっちゅう叱られたりは当たり前でしたが、
ほぼ毎日実家の親から私のことが心配だからって電話がかかってくるんだよ、って言っていた女子専用のオートロックマンションに住んでいた下宿生の文学部史学科の私と同級生だった(彼女は2回生修了、あるいは中退)もいました。

寮はとにかく厳しかったし辛かった日とかも多かったですが、楽しかった日もあったし、私ができなかったことを他の人たちや先輩からも助けてもらったりもしていたし、これからお話しをする京大のとある大学公認音楽サークル(合唱団です)や、鳥人間サークルでのこととかもとにかく「心」「こころ」「信仰」「思想」とかのことなので、よろしければお付き合いいただけると幸いです。

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