「人魚隠しし灯篭流し」第十話
【第一話はこちら】
気がかりなことはまだまだある。
珊瑚のうなじにあった鱗について、おそるおそる医者に問いかけた。
「珊瑚さんは……」
「発症してしまっているので、もうだめですねえ」
「…………」
文は俯き、膝の上の拳を握り締める。
病というのはどうしてこうも残酷なのだろう。こちらの意思に関係なく、誰にでも襲いかかっていく。
虎一郎が心配そうに覗き込んできた。
「文、何でそんな顔してるの? あんな女、どうでもいいじゃん」
「……そんなことない。私にとっては命の恩人で、友達なんだよ」
虎一郎は珊瑚が嫌いであるようだが、文にとってはそうではない。
珊瑚があんなことをするほど心を追い詰められているのなら助けてあげたい。しかし、残された時間が少ない――。
文は逸る気持ちで思考を巡らせた。
感染していないのは虎一郎だけ。
他の人魚族が行っていて、虎一郎だけがしていないこと。
空気感染ではなく、性行為以外の感染経路。
男女関係なく全ての人魚族が行っている、性行為以外の行為。
尚且つ、虎一郎曰く〝特別なこと〟ではないもの。
これまで見てきた人魚族の様子が物凄い速度で脳内を駆け巡る。
悲しそうに笑っていた珊瑚、斧を持って襲ってきた七海、ざらざらとした不快な声を出す異形の神体、一つの部屋に集まる黒服の男たち――その中でも、鮮明に思い出せるのは、この島に来てからずっと優しくしてくれた珊瑚の顔ばかりだった。
――『わたくしはよその人間の血を引いているからか、子供は全員、一人を除いて元気だったの。鱗生病にも誰一人なってない』
――『大変よお。子育て自体も大変だし、屋敷の女性陣からの圧力や悪口も大変。わたくしなんて、人魚族の他の女性よりも子の数が少ないし、母乳が出ないからってお婆様に散々文句言われて……』
――『子供が泣いているの。寝かしつけてくるわね。粉ミルクも作らないと……』
その時、文の頭にある可能性が過ぎった。
「先生、母乳で病気が広がることってありますか?」
顔を上げて聞くと、医者が少し驚いたように目を見開いた。
そして、髭の生えた顎に指を当てて考え込む。
「いや……母乳を介した感染症の伝播については、私の知る限り科学的な証明はなされていなかったはずです。ただ、母乳感染という概念自体は戦前に提唱していた医師がいますよ。眉唾物ではありますがねえ」
医者は腕組みし、「何故母乳での感染を疑ったのです?」と文を見下ろした。
「珊瑚さんは母乳が出ない体質だったんです。子供のこと、粉ミルクで育ててるって言ってました。人魚族全員が行うもので、珊瑚さんの子供だけが行っていないことってそれしか思い当たらない。それに、珊瑚さんは自分の子供だけ全員鱗生病になってないって言ってました」
「確かに、以前珊瑚様が自分の赤子を連れてきたことがありましたが、彼も感染していませんでした。まだ幼いが故と思っていましたが、珊瑚様の育て方にその要因があると予測するのは自然な流れですねえ。ははあ、なるほど」
面白そうに頷き、何やら紙を取り出す医者。彼は自身の考えを整理するためによく紙とペンを用いる。
文は隣で遊んでいる虎一郎に声をかけた。
「虎一郎、最近食べた怪異の死体ってどこに置いてる?」
「山の奥……左半身しか食べてないよ」
「残った部分を持ってきてもらうことってできる?」
「僕、文の役に立てる?」
「うん。力を貸してほしい」
虎一郎は嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。
怪異も元は人魚族の子供だ。
彼らが感染しているか調べることによって何か手がかりになるかもしれない。怪異の中には生後すぐに捨てられている子も多いだろう。怪異に感染が見られなければ、やはり人魚族が生後に行う行為の中に原因があると推測できる。
「文さん、貴女本当に面白い仮説を立てますねえ。さすが霧海村の神様だ」
「神様なんかじゃないですよ。神様なら大勢の人を救えるはずでしょう。私は珊瑚さん一人を救うことすらできてない」
「病で死んでいく人なんて数え切れない程いますよ。その一人一人に対していちいち責任を感じていたらきりがありません。しかし戦い続ければ今後多くの人を救えるかもしれない。貴女は珊瑚様が助からないと分かっても思考を止めず、戦おうとしている。それは意義のあることです」
医者の言葉に、それまで堪えていた涙が溢れてきた。
(――珊瑚さん、ごめんね)
死にたいと思っていた文は生かされ、文を助けた珊瑚は死んでいく。
申し訳ない。情けない。悔しい。悲しい。辛い。理不尽だと思う。
けれど――この命が珊瑚に生かされた命であることを、噛み締めて生きていくと決めた。
:
荒波が何度も押し寄せてくる。
曇天だが、雨は降っていないため銀鱗祭りは決行されることになった。
浜に高々と立てられた祭りの旗を見上げながら、文は裸足で海の近くを歩いていた。向かったのは、文が打ち付けられていたという岩だ。
その岩をしばらく眺めていた文は、遠くから祭りの音楽が聞こえてきて顔を上げた。――そろそろだ。珊瑚と会うには珊瑚や他の人魚族が屋敷から外に出る祭りのこの日しかない。
海雲族の目を使って島の中心部を確認すれば、お爺様と呼ばれる異形を乗せた神輿が人魚族の屋敷から運ばれていくところだった。
その道の先では多くの島民が土下座し、神輿が通るための道を開けていた。
その時、ぽんと肩に手を置かれる。
はっとして振り返れば、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべる男たちが数人いた。その顔を見てすぐに分かった。昨夜、珊瑚と交わっていた男たちだ。
「嬢ちゃん、最近人魚族の屋敷にいた子だろ。迷子か?」
「珊瑚様と仲良くしてるってことは、お前も淫乱なんだろうなァ」
「なあ、俺らと遊ばねえ? 夜の灯篭流しまでは暇だからさ~」
ぞわっと全身に鳥肌が立った。男たちはニタニタといやらしい笑みを浮かべている。衣服の隙間から覗く胸板の太い毛を見て茂を思い出し、その場で嘔吐しそうになった。
震える足で一歩後退し、男たちとわずかに距離を置く。
「この島の住民であるのに、邪淫の罪をご存じないのですか」
警戒しながら問いかける。彼らは決められた以外の相手とする性行為が大罪であると理解しているはずだ。なのにどうしてこんなにも軽々しく声をかけてくるのか。
「邪淫の罪ぃ? っはは、そんな足枷を付けられてんのはその辺の島民だけだろ。俺らは神に許されてんだよ」
「は……?」
「神である珊瑚様と交尾することで死後天国に行けるんだ。俺達は皆偸盗の罪や殺生の罪を背負っている。このままじゃ地獄堕ちだったところを、珊瑚様に助けられたってわけだ」
珊瑚がどのように男たちを言いくるめ、価値観を歪めて行為に及んだのかようやく理解した。
そんなものは方便だと反論しようとしたが、彼の目が本気だったため口籠る。明らかに何かを盲信している者の目だ。
さらによく見れば、その目元に紅い小さな斑点がある。目立たないので気付いていないのだろうが、彼らもきっとそのうち死ぬ――そう思うと、吐き気を催すほど不快なこの男たちに対して、少し同情することができた。
文は心を落ち着かせ、凛とした声で言い返した。
「――――珊瑚さんは貴方たちなんかの神じゃない」
神にだって生き方を選ぶ権利はある。
昨夜の光景を見て嫌だと、怖いと思ったのは――誘ったのは珊瑚でも、珊瑚自身が本当に心からあの状況を望んでいるとはとても思えなかったからだ。
「珊瑚さんを侮辱するな。簡単に触るな。珊瑚さんを穢すことは私が許さない」
睨み付けて威嚇すれば、男たちがはっとした様子で互いを見始めた。
「お……おい、こいつ、目の色が変わったぞ」
「ひっ、まさか、怪異なんじゃ」
「――逃げるぞ!!」
無様にも転けそうになりながら走り去っていく彼らの背中を見届けてから、文はゆっくりと緊張し続けていた肩の力を抜いた。
ひとまず追い払えたことにほっとする。
潮風を感じ、今度は海の方を向いて遠くを眺めた。
縦に高い建物が立ち並ぶ本土が見える。向こうの光景は島の様子とは随分と違うように思った。
その時、ざぶんと一際大きな波の音がする。
気になってふと見下げれば、何かが岩に打ち付けられていた。
明かりの消えた、外側だけの灯篭だ。
(灯篭流し……本当に流れ着いてくるんだ)
少し驚いた。頭では分かっていることだが、感覚としては不思議である。本土とこの島は本当に海で繋がっているのだ。
文は屈んでその灯篭に結び付けられた紐を引いた。
霧海村の伝統工芸品だ。その先に、本当に手紙が結ばれている。
まだここまで伝統を大事にしている村人がいるのかと感心しながら、その手紙を拾い上げた。水で濡れ、滲んだ文字が薄く読める。その文面が目に入ってきた時、はっと息を飲んだ。
〝千代子 ごめんなさい 戻ってきて〟
――――それは、栃木にいる母親の文字だった。
「私の名前……千代子だ……」
手紙を持つ手が震えた。
どうして忘れていたのだろう。
千代子は手紙だけを畳んで着物に入れ、灯篭を引き上げて目立たない場所に置いた。
これで父親の支配下を抜けた。
不思議とそれが感覚として分かるくらい、頭の中の靄が晴れたような気持ちだった。
今からでも島から出ることができる。しかし、千代子にはまだやるべきことがあった。
島の方向を向いて走り出す。
(珊瑚さん……一体どこ?)
さっきから目で捜しているのに、島のどこにも珊瑚の姿が見えない。他の人魚族の人々は行列を作って島民が運ぶ神輿に続いて歩いているのに、そこに珊瑚はいない。
まさか既に殺されたのでは、と嫌な予感が頭を掠める。
千代子は仕方なく、虎一郎たちがいる海雲族の屋敷に戻った。赤い橋を越え、空高く跳び上がる。一瞬にして屋敷が目の前に近付いてきて、縁側で涼んでいたらしい帆次が驚いたように千代子を見つめた。その隣では虎一郎がスイカを食べている。最初は緊迫した雰囲気だったこの二人も、今では自然と二人でいるようだ。
「お願い二人とも、一緒に珊瑚さんを捜して」
「お前、名前取り戻したのか?」
「その話は後でする。珊瑚さんが見当たらないの」
千代子は帆次の背中に無理やり乗って伝える。
千代子も海雲族の跳躍力を使えるようになってきたとはいえ、帆次の方がまだ速い。急いでいる今は帆次の力を借りるのがいいだろう。
隣の虎一郎がぷっとスイカの種を吹き飛ばして不機嫌そうに言った。
「やだ。文が僕の背中に乗らないと行かない」
「お願い虎一郎、今は急いでるの。言うことを聞いて」
「僕の背中でも運べるもん。そいつの背中に乗られるのやだ」
「……分かった、帆次は海岸沿いから順番に捜して。私と虎一郎は山の方から捜す。帆次、見つかったら保護してこの屋敷に連れてきて」
ここで言い争いをしていても仕方がないので、二手に別れることにする。
帆次は呆れ笑いを浮かべながら、「ああ」と言って縁側から立ち上がった。
:
結局虎一郎の背中に乗って移動することになった千代子は、虎一郎と共に山を駆け巡って珊瑚を捜した。しかし、やはり山奥にも珊瑚は見当たらない。
虎一郎は走りながらぼそりと呟いた。
「今日は化け物たちが騒がしい」
「そう? 何も聞こえないけど……」
「人魚族の子供の声は、多分別種族には聞こえない」
そういえば珊瑚も、遠くの我が子の声を聞き取っていた。
人魚族というのは何とも不思議な種族だ。人間とは違う生体を持つ――だからこそ、神にも成り代われてしまったのだろう。
山の下に松林があった。背の高い松の木々が天に向かってまっすぐに伸び、その針のような葉が風に揺れるたびに囁くような音を立てている。深く息を吸い込むと、仄かに甘い香りと土の湿った香りが混ざり合って鼻に届いた。
林を抜け、道に出た時、黒い着物を身に纏った美しい中年女性――七海が立っていた。待ち構えていたという雰囲気ではない。あちらも千代子たちを視界に捕らえた瞬間、声にならない様子で身動いだ。
まさか千代子が生きているとは思っていなかったのだろう。七海は千代子を凝視した後、千代子を抱える虎一郎を見て青ざめた。
そして、急に鬼のような顔になる。
「アンタ、ここにいちゃいけないよ」
厳しい声だった。
「ここはお爺様の神輿の進行方向だ。見つかったら今度こそ何をされるか分からない。どこに逃げたんだが知らないが、さっさとそこへ戻るんだ」
まるで心配するかのように低い声で警告してくる七海。
その腹は大きく、何かを身籠っていることが窺えた。七海のような年齢でもまだ子を産むことを強いられるのだ。
七海が虎一郎の腕を掴み、焦って導くように反対方向に引っ張ろうとした――次の瞬間、七海の片腕が飛んだ。
「な……っ!」
七海の名を呼ぼうとして、言葉にならなかった。
人の腕一つが松林の地面にぼとりと落ちる。やったのは虎一郎だ。
「虎一郎、何してるの!」
「こいつ、僕を掴んだ」
心底不愉快そうに、蛆を見るような目で血を噴き出す七海を見下ろす虎一郎。彼は自分を置き去りにした人魚族全員を恨んでいる。きっと、だから触れられただけでこんなことをするのだ。
人魚族は治癒能力が高い。この程度では死ぬことはないだろう。しかし痛いのは同じだ。千代子は虎一郎の背中の上で暴れ、地面に降り立った。
七海に駆け寄る。腕のない状態で仰向けに倒れた七海は、虚ろな瞳で曇り空を見上げていた。
予想通り息はある。しかし意識は薄れているようだった。
「七海さん、七海さん! 聞こえますか!?」
どうしていいか分からず何度も呼びかける。
すると、七海が薄っすらと開けた目で千代子の方を見上げた。そして何かを囁く。口元に耳を近付けてその声を聞くと、「逃げるんだ」とこの期に及んで未だ千代子に向けた言葉を放っていた。
「し、止血……っいくら人魚族でも腕の欠損なんてなかなか治らないんじゃ……」
「早く……逃げて……」
「七海さん、何でそんなに私のことを……!」
「アンタは、こんな場所にいちゃいけないよ……」
七海が懇願してくる。
きっと七海は千代子のことを、二百年も前に無理心中しようとした娘と重ねているのだ。それを察した時、胸が締め付けられるような心地がした。
下から衣類を剥ぐ音がして、はっとそちらに顔を向ける。
まさか七海を喰う気なのではと焦ったが、その予想は外れていた。
――虎一郎が、七海の乳を吸っている。
「何してるの!?」
悲鳴にも似た声が出た。
虎一郎の肩に手をやって半ば無理やり七海から引き剥がす。
しかし、虎一郎は用は済んだとでも言うように満足げに笑っていた。曇っていて周囲が薄暗いためか、その表情は千代子の目に不気味に映る。
「これで僕が感染すれば、文の言うことが正しかったって分かる。僕、文の役に立ちたい」
虎一郎は暗い穴の中、ずっと人と関わらずに暮らしてきた。だから、必要とされることに執着している。
そして昨日の発言で、鱗生病の原因を一緒に探れば千代子の役に立つと学習してしまったのだ。
「虎一郎、鱗生病がどんな病気か分かってないの?」
「僕たちは発症が遅いんでしょ」
「でも、発症したら死ぬのよ! 治療法は未だない!」
「それでもいい。文の役に立てるなら」
千代子は思わず、虎一郎の頬を平手打ちした。
虎一郎が驚いた顔をして立ち竦む。
「虎一郎の感覚はずれてる。今後、私の許可しないことはやらないで」
「……文……ごめん……怒った……?」
「怒ってる。虎一郎が自分のことを大切にしないから」
「……大切……僕が……?」
「こんなことされても嬉しくない。七海さんのことだって……目の前に現れた人のことを、突然傷付けたりしないで」
千代子が震える声で伝えると、虎一郎はまるで叱られた子供のようにしゅんとした。
(でもこれも、当然だ……)
虎一郎は何も知らない。外の世界のことも人との関わり方も。
実質的には生まれたての赤子と変わらない。虎一郎をこんな状態にしたのはあの家だ。虎一郎を閉じ込めざるを得なくした、あの一族のせいで。
虎一郎だけを責めるのは間違っている。
――そう感じて虎一郎から目をそらしたその時、人魚族の行列が近付いてきた。
島民が祀る神体を乗せた神輿が運ばれてくる。
隠れるにはもう遅かった。
何人もの長身の男。人魚族の屋敷で見覚えのある者ばかりだ。
汗が首筋を伝う。
この状況はまずい。死んだはずの千代子と、同族殺しの罪がある虎一郎。そして、その目の前には腕をもがれて倒れた七海。端から見れば、千代子と虎一郎が共謀して七海を襲ったように映ってしまう。
『――文』
男たちの向こう、島民が抱えている神輿の中の異形の声が脳内に響く。
『背後の男を殺し、己が命を絶て』
ざらりと脳を舐めあげるような、聞くだけで吐きそうになる声で、異形は命じてきた。虎一郎を殺し、自殺せよと言っている。
しかし、その命令を聞いたところで、少しも従おうという気は起こらなかった。
行列の進行は止まり、人魚族の男たちが不気味なものでも見るような目で千代子を見つめる。
「この女……お爺様の支配が効いていない」
「そんな、まさか、名を奪ったはずだろう。お爺様の命に歯向かっているのに、どうして死なない?」
彼らにとって、異形の支配下にある者が命令を拒んで死なないのは相当な異例なのだろう。男たちは怯えたように後退る。
虎一郎が千代子を守るように立ちはだかった。
横目で逃げ道を探していると、――――背後から大きな爆発音がした。
千代子たちだけでなく、人魚族の男たちもその方向を見上げる。
遥か向こう、人魚族の屋敷から、どす黒い煙が立っていた。その黒煙は強風に煽られて空高くゆらゆらと上がっていく。
――火事だ。人魚族の屋敷全体が燃え上がっている。
大規模な火災を見たことがなかった千代子は驚いて立ち竦む。あれだけ炎が広がっていては、消火するのも困難だろう。
千代子は海雲族の目を使って視界に映る屋敷を拡大した。
燃え盛る炎の中、崩れ落ちる屋敷の傍に、珊瑚がいる。
彼女は祭りの最中もずっと屋敷の中にいたのだ。見つからなくて当然である。
「珊瑚さん……! ッきゃあ!」
屋敷の方向へ走っていこうとした千代子の二の腕を人魚族の男が掴む。
腕の骨をへし折る気かというくらい強い力だった。
「この女が首謀したに違いない!」
「どうしてくれるんだ! あの屋敷がなくなれば、俺達が怪異から隠れる場所がない!」
「日が暮れそうだ……! 誰か、誰か急いで黒い布を持ってくるんだ!」
千代子の目前にいる虎一郎の顔が歪み、その瞳に殺意が揺らぐ。
虎一郎は千代子の腕を掴まれたことに怒りを覚えているようだった。
「虎一郎、だめ!」
このままでは虎一郎がこの場にいる全員を殺してしまう。
そう予感し、制止するため叫んだその時、松林の向こうからどすどすと大きな足音がしてきた。
――何かが近付いてくる。
熊や狼などの大きな獣を想像させる、重みのある足音だ。
何かは分からないが、本能的に逃げなければと感じた。
しかし、人魚族の男に腕をがっしりと掴まれていて引き剥がせない。
「離して!」
男に対して怒鳴った時、何者かが彼に上空から蹴りを食らわせた。
男は呆気なく気絶して倒れる。
上空から跳んできたのは帆次だった。
帆次も遠くを視ることができるため、千代子たちの異変に気付いて駆け付けてくれたのだろう。
「虎一郎、隠れろ!」
帆次は瞬時に千代子を担ぎ、虎一郎に向かって命令する。
次の瞬間、松林の中から、山に棲んでいるはずの怪異が飛び出てきた。
おどろおどろしい程の数だ。顔のない者、四足歩行の者、腕が五本ある者――視界に入れるだけで精神に異常をきたしそうになる化け物達が、島民の担ぐ神輿に襲いかかる。人魚族に行列に続いていた島民たちが悲鳴を上げて逃げ出した。
大量の怪異たちが怪力で神輿を打ち付け、壊し、人々にも噛み付く。現場は阿鼻叫喚を極めた。
「……っひぃ」
「しっ。声を出すな、見つかる」
帆次が懐から黒い布を出して虎一郎と千代子に被せてくれた。
千代子は怯えながらも息を潜め、神輿が解体されていく様を見守る。
『あそ ぼウ』
『サビシイ』
『おじ さま』
『山へ行コう』
『ずっといっしょ』
怪異たちの不気味な声は、捨てられた子供たちの悲痛な叫びに聞こえた。
彼らの手によって解体された神輿から、ズルリズルリとご神体が引き摺り出される。泥のような黒い液体を被った、人とは思えぬ異様な体躯。ぎょろりと何度も動く一つの赤い目玉。顔もなければ手足もない。〝化け物〟と呼ぶに相応しいその姿を目にして絶句したのは千代子たちだけではない。
怯えながら立ち竦んでいた島民たちも、自分たちがこれまで〝神様〟として崇めてきた存在の真の姿を初めて見たのか、酷く青ざめている。
誰もが直感的に思っただろう。――この醜い生き物が神であるはずがないと。
怪異たちの興味は今は人魚族だけに向けられているが、このままでは突っ立っている島民も危ない。さらに、切られた腕を押さえて逃げようとする七海にも怪異が襲いかかろうとしているのが見えて、千代子は黒い布から出て走り出した。
「おい!」
後ろから帆次の怒鳴り声がする。
しかし千代子はその呼びかけに応答せず、走りながら落ちていた松の枝を握り締め、七海に手をかけようとする怪異の赤く光る目に突き刺す。
「帰りなさい! 貴方たちの居場所はここにはない!」
怪異にも物理攻撃が効くと教えてくれたのは、今後ろにいる七海だ。
人魚族の男たちはもうほとんど殺されてしまっている。その体は再生が不可能な程に千切られており、周囲は血の海だった。
目を刺された怪異は千代子の予想以上の苦しみを露わにし、泣き叫びながら倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
次の瞬間、異形に気を引かれていた他の怪異たちが千代子を振り返り、一斉に近付いてくる。
その姿を目に入れた途端、千代子の脳内に赤い目がぐるぐると駆け巡り、気持ち悪くなってきて嘔吐しそうになった。浜辺で怪異に追い詰められた時と同じ感覚だ。このままではまた精神異常をきたしてしまう。
「虎一郎、帆次! こいつらの弱点、目だよ!」
奥に隠れている二人に向かって叫ぶ。
伝えるより先に彼らは動き出していた。帆次は怪異に蹴りかかり、虎一郎は怪異に勢いよく噛み付く。帆次から黒い布を投げ渡されたため、千代子はそれを七海と一緒に被り、帆次たちが怪異の気を引いている隙に他の島民を呼んだ。
彼らには松林の奥に潜んでもらい、同様に黒い布を被せる。
「あれは一体……」
「ご神体のあの姿は、怪異そのものだ」
「怪異のあの赤い目……人魚族にそっくりじゃないか」
「私達、一体何を祀ってたの?」
「いや、それよりも……」
戸惑いを隠せない様子の島民たちは姿勢を低くし、顔を見合わせて囁き合った後、恐る恐るといった感じで千代子を見上げる。
「言い伝えで聞いたことがある……霧海村からやってきた神様は、今のこの子のような金色の目をしていたと」
しん、と場が静まり返った。
どうやら千代子の目は千代子の気持ちが興奮や焦り、緊張などで昂ると金色に変わる瞬間があるようで、今の千代子の目も金に光っているらしい。
「そうか……斧で迫った時に一瞬、色が変わっていたからもしやと思っていたけれど。アンタ、海雲族の血筋だね?」
血塗れの腕を押さえる七海が、馬鹿にしたようにハッと笑い、島民たちの方に目をやる。
「アンタらの予想通りだよ。アンタたちの言う〝人魚の神様〟はあたし達じゃない。霧海村から運ばれてきた神は、海雲族さ」
衝撃の事実を言い渡された島民たちの顔が強張る。
自分たちが本物の神を差別して虐殺していたという衝撃と、では目の前にいる七海たち人魚族は何なのかという不安が同時に襲ってきたのだろう。
「……七海さん、そんなこと言ったら……」
七海は、人魚族が島民たちを騙していたことを暴露した。
今後の人魚族への扱いが不安になって七海の顔を窺うと、七海は何故か清々しげに笑っていた。
「どのみちもう終わりさ。人魚族は全員。神輿には怪異が近付けないように怪異が嫌う匂いを付けているはずだった。それを任されていたのは珊瑚だ。これは珊瑚の謀反だよ」
「謀反……」
「屋敷には人魚族全員の名の書かれた紙も、お爺様の本体である〝首〟もある」
「首……? 神輿に乗っていたあれは本体ではないということですか?」
「あれはお爺様の身体だ。身体を壊されただけじゃお爺様は死なない。本体である首をどうにかしなければならない。ただ、屋敷が燃えたということはその首も今頃燃えているか、珊瑚の手の内だろう。案外呆気ないものだねぇ」
「……待ってください、首はともかく、名の書かれた紙を燃やされたら、その名を持つ人物は死ぬんじゃ……」
「理解の遅い子だね。だから全員終わりだと言っているんだよ。珊瑚は全員の紙を燃やす気だ。あの子の人魚族への恨みは皆殺しでもしないと晴れないだろう」
それを聞いた途端、千代子は急いで走り出した。
「文」
千代子の背中に向かって、七海が聞いたこともない優しい口調で語りかける。
「もう二度と会えないかもしれない。アンタは幸せになるんだよ」
それはまるで我が子に語りかけるような、切ない声だった。
次話:更新予定
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?