「人魚隠しし灯篭流し」第四話
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庭の石畳の上を歩いて部屋に戻ろうとしていた時、何かがぶつかる音が聞こえた。文は下駄を脱いで廊下に上がり、こっそりと音のした部屋の近くに寄る。
「人間の子を匿いたいだぁ? ふざけるんじゃないよ!」
次に聞こえてきたのは金切り声だった。襖の間から中を覗くと、黒い着物姿の年配の女性と珊瑚がいた。彼女は珊瑚と同じく赤い目をしている。
文はこの屋敷では珊瑚と鱗生病の老婆しか見たことがなく、他の健康な住人を見たのはこれが初めてだった。
「アンタ、昨日は夕食をこっそり持ち出していたと思ったら、よそ者に飯を与えていたんですってね。ああ、穢らわしい。人間の子だから人間に情でも芽生えてしまったのかい」
年配の女性が珊瑚の頬を打つ。思わずあっと声が漏れてしまいそうになった。
(……人間の子?)
珊瑚は人魚族の娘であるという話ではなかったか。不思議に思い、息を潜めて会話を聞き続ける。
「わたくしに人間の血が混ざっていることとこれとは今関係がありませんわ。拾ったあの子はこのまま放っておいたら本当に死んでしまいそうな危うさがあります。ここでしばらく匿って、然るべき時に帰してあげてください。仮にもわたくし共はこの島の神です。神が人に恵みを与えなくてどうするというのですか」
珊瑚は打たれたにも拘らず毅然とした態度で言い返している。
しかし年配の女性はべったりと赤い口紅の付いた口元を歪ませて嘲笑う。
「は、穢らわしいアンタの母親もそう言って人間の男を匿って子をなしたんだよ」
「拾った子供は女の子です。わたくしと子をなすことはできません」
「ふん、あの大馬鹿者の娘なんて信用できないね。あの女は女好きのとんだ色男に騙されて禁忌を破り、邪淫の罪を背負った。挙げ句の果てにはその男に捨てられた! 何でもあの男には霧海村に他に女がいたそうじゃないか? っふ、ふふ、はははははは! アンタの両親は両方邪淫の罪を背負っているというわけ。その間に生まれたアンタもとんだ尻軽だったりしてねぇ?」
年配の女性が高らかに笑うと、それまで無表情だった珊瑚の顔が途端に歪み、赤い目がぎらりと光った。
「――母様を悪く言うな!!」
珊瑚が怒鳴って年配の女性に掴みかかる。しかし女性はそんな珊瑚の手首を掴んで軽々と投げ飛ばしてしまった。珊瑚の体と壁がぶつかる大きな音がする。珊瑚は呻きながら蹲った。
文はあまりのことに一歩後退った。きぃ、と廊下の板が音を立てる。
「そこに誰かいるのかい」
中の女性が厳しい声で文の方に問いかけるので、文はハッとして走り出した。廊下の曲がり角はすぐそこだ。息を潜めて角を曲がり、そこにあった部屋に身を隠す。
向こうで襖の開く音がする。
「……何だい、鳥かい」
どうやら庭に雀が集まっていたようで、文の存在は気付かれずに済んだ。
襖が再び閉じる音がして、文はほっと息を吐く。
(今の話を聞いた感じ、珊瑚はこの屋敷の人と霧海村から来た人間の間にできた子供……ってことかな)
ということは、珊瑚には人と人魚の血が半分ずつ流れているということになる。だから人間である文を拾い、優しくしてくれたのかもしれない。
土の匂いがして暗い部屋の奥を見ると、畳の一角が大幅に抜け落ちていた。文は恐る恐るその場所に近付いた。地面を掘ったような深い穴が開いている。底が見えない程に深い。とても人間が掘ったものとは思えなかった。
目を凝らすと、山の怪異を見た時のように視界が狭まり、小さいものが大きく視えた。穴の底に人が体育座りしている。
「だ……大丈夫?」
小さな声で問いかける。下にいる人間がこちらを見上げた。
白髪の若い男だ。図体は大きいが飲まず食わずなのか痩せ細っており、珊瑚と同じ赤い目は虚ろだった。
男はゆっくりと口を動かしたが、その声は聞き取れない。喉が乾いて発音できないのだろう。
「待ってて」
文は小声で言って立ち上がり、外に誰もいないことを確認してから部屋を出た。電気冷蔵庫から水の入った瓶を持ち、再び男のいた部屋に戻る。
「そっちまで手は届かないから、口を開けてくれる? 水を垂らしてあげる」
言葉は分かるようで、男は口を開いた。かけすぎないように瓶を傾け、一滴一滴水を垂らす。
男が瓶一杯の水を飲みきるまで、随分と長い時間がかかった。
男は満足げににたりと笑う。顔が痩けているせいかその笑顔は何とも言えない不気味さを醸していた。
(縄のようなものを持ってくれば引き上げられるかもしれないけど……こんな穴の中に閉じ込められてるってことは大罪人なのかもしれないし、勝手に出すのはちょっとな……)
迷ったが、男の骨と皮だけの細腕を見て考えるのはやめた。縄を垂らしたところであの腕では掴んで上がってくることもできないだろう。
「貴方、お名前は?」
何者かと問いかけてみると、男はわずかに口を動かした。しかしやはり声になっていない。口の動きで何を言っているのか推測するしかない。
〝な〟〝い〟――口がそう動いているように見えて、文は再び問う。
「ない……名前がないってこと?」
下の男が赤い目を光らせてこくりと頷いた。
「……呼ぶのに不便だから、仮名を付けてあげる。ええっと……」
文はきょろきょろと辺りを見回す。すぐに部屋にあった掛け軸が目に入った。掛け軸にはどこかの画家が描いたのであろう立派な虎が描かれている。
「虎……」
仮名とはいえ動物の名前で呼ぶのも人間扱いしていないようで嫌なので、頭の中で虎に少し人間っぽさを付け足してみる。
「虎一郎《こいちろう》というのはどう?」
虎一郎はしばらく文をじっと見つめた後、目を細めてぱくぱくと口を動かした。
何を言っているのかと目を凝らす。口の動きが速くて言葉が読めない。しかし徐々に、何故か声が聞こえるような気がしてきた。
頭の中に音が響く。
『あァ……やっと見つけた。僕の本物』
ぞっとした。思わず覗き込んでいた穴から顔を離して後退った時、外から文を呼ぶ声がする。
「ねぇ、どこへ行ってしまったの? ねぇ、ねぇ~」
珊瑚の声だ。
自分を捜されているような気がして、文は慌てて部屋の襖を開け、珊瑚に与えられた部屋へと走る。
数分後、屋敷の庭を回ってきたらしい珊瑚が文の元に戻ってきた。
「あら? 戻ってきてる。もう、朝からどこへ行っていたの? 庭を捜してもいないし」
「せ、雪隠に。ちょっとお腹を壊してしまって」
「ああ、お手洗いだったのね。びっくりしたわ……抜け出したのかと」
珊瑚がほっとした様子で部屋に入ってくる。
珊瑚とあの女性の会話を聞く限り、文の存在は珊瑚以外のこの屋敷の人間によく思われていない。だからこそ、迂闊に歩き回られると他の誰かに捕まってしまうかもしれないと珊瑚は心配してくれているのだろう。
珊瑚の顔の傷口にはガーゼが貼られていた。打たれた頬が腫れている。
見ず知らずの文を匿っているせいで怒られたという事情を知っているだけに、複雑な気持ちになってしまった。
「あの、珊瑚さん……」
やっぱりこの屋敷を出ていくと伝えようとした時、珊瑚がぱんっと両手を合わせた。
「ねぇ、わたくし、重大なことを思い出したの」
「な……何?」
「貴女のお名前聞いていなかったわ」
言われてみれば、珊瑚は文が目覚めてすぐ名乗ってくれたが、文の方は自己紹介をしていない。
「捜す時なんて呼べばいいのか分からなくて困ったのよ。今更な気もするけれど、名前はなんというの?」
「……文……」
「ふみちゃん? 可愛い名前ね。貴女にぴったり」
珊瑚が朗らかに笑って名を褒めてくれる中、文は自分が口にした名前に何故か違和感を覚えていた。
――自分の名前は、こんなに短かっただろうかと。
「今日は病院に行きましょうね。文ちゃんを止血してくれたお医者様がいて、様子を見たいから来るようにと言われているの。お腹を下していることについても相談するといいわ。はいこれ、今日の朝ご飯」
珊瑚が皿に乗ったおむすびを渡してくる。
文はそれを受け取りながら、これも珊瑚がこっそり持ち出した食事なのではないかと心配になった。
「……私、ここにいて平気? その……お屋敷の人にもご挨拶してないし」
「ああ、いいのよ。この家の人達は厳しいから、言ったって納得してくれないと思うわ」
「それってだめなんじゃ……」
「ここを出て行く宛はあるの? 外で生活すると言っても夜は危険よ。文ちゃんを見殺しにしたくないの。お願い、言うことを聞いて」
珊瑚が眉を下げながら言う。
文は昨夜の怪異を思い出し、ぐっと押し黙った。
この島は人ならざるモノが棲む島だ。あの山の化け物以外にも危険な怪異は存在するだろう。昨日の経験があるからこそ、珊瑚の言う〝夜は危険〟の意味合いもより深刻に感じる。
「……ごめんね。ありがとう。でも、何もしないで居座らせてもらうのも申し訳ないから、何か手伝えることはないかな?」
控えめに聞いてみると、珊瑚は顎に指を当ててしばらく考え込むような素振りをし、ちらりと文の髪を見た。
「じゃあ、その組み紐をもらってもいい?」
珊瑚が見ている組み紐は、文がずっと髪を結んでいるものだ。
文は予想外の要求に戸惑った。
「いいけど、そんなことでいいの?」
「それ、霧海村の伝統工芸品でしょう。死んだ母様がよく腕に付けていたの」
珊瑚が哀しげに笑う。
「こんなことを言うのも変だけれど、その組み紐を見た時、もしかしたら運命かもしれないって思ったのよ。わたくしが文ちゃんを助けたのは、文ちゃんの髪にそれが絡まっていたから。母様と父様がこの島で出会ったみたいに、わたくしと文ちゃんが出会ったのも運命なんじゃないかって感じたの」
文にとってはただの髪留めでも、珊瑚にとっては違うのかもしれない。島から陸に行き来する手段がないのなら、珊瑚は父の故郷である霧海村にも行くことができないということだ。母が身に着けていた思い出の品。手元に置いておきたいと思うのも不思議ではない。
文は髪から組み紐を外して珊瑚に渡す。
「いいよ。これは珊瑚さんの方がきっと似合う」
珊瑚は嬉しそうに組み紐を受け取り、長い髪を一つに纏めた。
美人はどんな髪型でもよく似合うと感心しながらその様を見つめる。
「本当にありがとう、文ちゃん。わたくし朝は来月のお祭りの準備があるから、少し離れるわね。午後にまた迎えに来るわ。ご飯を食べて待っておいて」
時計を見て慌ただしく出ていった珊瑚。
部屋に残された文は用意されたおむすびを一口かじった。
――やはり、食べている感じがしない。
ひとまず一つだけ食べた後、並んでいる残り二つに手を伸ばそうとしてやめた。
気がかりなのは、さっき穴の底で見た男のことだ。
彼は声を出せていないはずだった。けれど文には何を言っているのか理解できた。不思議な感覚である。
(あれも怪異……? でも、どう見ても人間の姿だし、あの目の色は珊瑚に似てた。多分このお屋敷の人だ。さっき珊瑚に詳しく聞ければよかったけど……)
勝手に別の部屋に入ったことは知られたくないため、直接聞くのは少し抵抗があり、結局聞けなかった。
文はおむすびの乗った皿を持ったまま外へ出て、忍び足で廊下を歩き、再び曲がり角の直前にあるその部屋の襖を開けた。
この方角は朝日が差し込まないため、部屋は変わらず薄暗く、独特の土の匂いがする。
「虎一郎。いる?」
下に向かって声をかける。目を凝らせば虎一郎が文を見上げるのが分かった。
虎一郎の瞳孔が開いている。目を輝かせながら暗闇の底で笑っているその表情はやはり、少し不気味だ。
「私、この島に来てから何故か食欲がなくて。おむすびをもらったから貴方にあげる。今から落とすから、うまく受け取ってね」
虎一郎の痩せ具合を見るに、このままではそう長くないだろう。罪人であれど放ってはおけない。
ゆっくりと一つずつおむすびを落とす。虎一郎はそれらをうまく掴んだ。
食べるところを見届けたかったが、あまり長居すると見つかってしまうかもしれないと思い、皿を持って早々に部屋を出る。
(もしかしたら、閉じ込められてるんじゃなくて、あそこが住処なのかも。暗い場所でしか生きられないとか、ちょっと特殊な生態なだけだったりして)
虎一郎からは逃げたいという意思を感じられなかった。普通閉じ込められているのであれば助けを求めてきそうなところを、彼は何も言ってこなかったのだ。
種族が違えば過ごし方が違っていても不思議ではない。そう解釈した方が怖くないと思った文は、勝手にそう決めつけて部屋に戻った。
:
暑さの増す午後、文は肌を掻きながら珊瑚に付いていった。珊瑚が日傘をさしてくれて、一緒に同じ傘に入って病院まで向かった。
夏の蒸し暑さが容赦なくのしかかってくる。島の人々も多くは木陰で暑さを凌いでおり、珊瑚を見るなり神を崇めるように頭を低くしていた。
島で唯一の病院は田んぼ道を過ぎた後に流れる小川の傍にあった。想像していたよりもこぢんまりとした建物だ。外から見るだけでも、沢山の人を入院させられるような大きさはないと分かる。
珊瑚が傘を閉じ、戸を開いて中に入る。中は随分と静まり返っており、受け付けにすら人がいなかった。珊瑚が奥に向かって「先生ー。いらっしゃる?」と声を張って呼んだ。
するとドタバタと音を立てながら白衣を着た小太りのおじさんが走ってくる。姿からしてこのおじさんが島唯一の医者なのだろうが、文よりも身長が低く横に大きいため、何だかマスコット的な可愛さを感じた。
「おや、珊瑚様。私の方から赴こうと思っていたのに、わざわざ連れてきてくださったのですねえ」
「先生もお忙しいでしょう?……それにしても、今日は人が少ないのですね。わたくし、間違えて休診日に来ちゃったのかしら」
「いいえ。合ってますよお。最近は私が珊瑚様のような特別な来訪者以外は追い返しているのです。風邪なんて放っておけば治りますし、重い病気はうちの設備ではどうにもできないんでねえ。――それに、私が興味あるのは鱗生病だけですよお。それ以外の患者に来られても、時間の無駄です」
笑顔で言い切った小太りの医者から狂気を感じる。
「まあ、先生ったら。御冗談を」
恐怖を覚えた文の横で、珊瑚はくすくすと笑っていた。
医者の話が事実なら、幸か不幸か頼んだのが珊瑚でなければ文は治療を受けられず、今頃死んでいたということである。
医者は珊瑚から文に視線を移し、丸眼鏡の奥の黒い目でじっと文を見つめた。そしてしばらく黙っていたかと思えば、ニタリと笑う。
「元気そうで何よりです。珊瑚様は待合室で待っておいていただければ。なあに、そう時間はかかりません。すぐ終わりますからねえ」
珊瑚は待合室の椅子に腰をかけ、文だけが奥に招かれた。
傷口を見られ、血液と呼吸数の検査が終わった後、医者は汚れた白衣の袖を捲りながらうんうんと頷いた。
「いやあ、いいですね。膿瘍もなさそうです。貴女本当に運がいいですねえ。一時期は循環血漿量がかなり下がってまして、どうなることかと思いましたよ。脾臓が破裂していたのでね、血を止めるために取らせてはもらいましたが、まあ臓器一つで何とかなっただけで幸運です」
「……あの、食欲のない状態がずっと続いているのですが、それって出血とは関係ありますか?」
「食欲ぅ? まぁ、心因性のものじゃないですかねえ。私はそういうものには興味がありません」
血液検査の結果らしき紙を見ながら興味の有無をバッサリ言い切った医者は、眼鏡を中指で上げて目を細める。
「――――それよりも、貴女、発症しているでしょう」
「……え?」
医者が急に立ち上がり、文が身に纏っている着物の袖を勢いよく捲る。そこには紅い斑点と掻き毟った跡があった。
「だめですよお。掻いたら広がります。痒み止めだけ出しておきますねえ。残念ながら、この病気には対症療法しかないのでね」
ははは、と笑った医者は、突然紙とペンを手に取って何か書き始める。
文には読めない、癖の強い独特の文字だった。
「面白い。ということは、珊瑚様は無症候性キャリアで、鱗生病は輸血によっても感染する説が濃厚ですねえ。いやあ、ちょうどよかった! 貴女のような方が島に来てくれて」
「…………」
「ああ、悪く思わんでくださいねえ。貴女はそもそも放っておけば死ぬ状態でしたのでねえ。そんな中、幸運にも異型適合血の珊瑚様が輸血に協力的だったというだけです。さらにそれがたまたま、私の実験に有意義だった。この島と関わりのない人間が流れ着いてくるということ自体、かなりのレアケースですからねえ。使わない手はないでしょう」
医者はニタニタと笑っている。
文にとって、聞き捨てならない言葉があった。
「珊瑚さんがキャリアって、どういうことですか。珊瑚さんも死ぬんですか?」
「発症していないだけで感染はしているということです。なあに、そう珍しいことではありません。私が知る限り、人魚族は一生のうちに必ず発症し重症化します。それが遅いか早いかの違いでしてねえ。若くして発症する者もいれば、百二十歳で発症する者もいるようで」
医者が珊瑚を待合室で待たせた理由が分かった。
自分がいつか重症化する可能性が高いなどという話を発症すらしていない今聞く必要はないし、怖がらせてしまうだけだ。
珊瑚の朗らかな笑顔を思い出し、胸が締め付けられるような思いがした。
「重症化を止める方法はないんですか?」
「私はそれをずっと研究しているのですよお、文さん。その過程で珊瑚様には助かっています。人魚族の連中は人に触られたくないと治療を拒否しますからねえ。実は、人魚族の中であれほど人間に友好的なのは珊瑚様くらいなのですよお。私は今、重症化しやすい人魚族と他の人間の違いについて調べています。まぁただ、珊瑚様は純血の人魚族でないということもあってか、赤血球の形状と虹彩の表層にあるメラニンの量くらいしか一般的な人間との違いがなくてですねえ」
形状が違うのに輸血したのかと驚くと同時に、珊瑚の屋敷で目が覚める前に聞いた話し声がふっと頭に浮かんだ。
――『本当に大丈夫でしょうか……目が覚めるのでしょうか……わたくし、血の形が人とは違うのに』
――『おそらくそろそろ目を覚まします。輸血できるかは赤血球の表面にある抗原によって決まるので、形は関係ありませんよお』
――『よかった……わたくしの血では駄目かと……』
あれはこの医者と、珊瑚の会話だったのだろう。
(珊瑚さんは自分の血を分け与えてまで助けてくれた。突然流れ着いていた得体の知れない私のことを。投げやりになって自ら人生を終わらせようとしていた、私なんかを)
俯いていた文は覚悟を決めて顔を上げる。
「あの、私、何でもします。鱗生病患者の情報が欲しければどんな検査でも受けるので、研究に役立ててください」
食い気味で申し出ると、急に医者が満面の笑みでパチパチパチパチパチパチィ! と物凄く大きな音を立てて拍手してきた。
「いやあ、素晴らしい友情ですねえ! そんなに珊瑚様が大事ですか」
「私は、近々死ぬので……。せめて、善意で助けてくれた珊瑚さんのために、何かできることがあればと」
「ははぁ! とてもいいことです! では定期的に私の元に通ってください。患者本人に拒否されて実行できないような実験をしてみたいものでね。では同意の上ということで、同意書を持ってきますねえ」
あまりの勢いと医者の愉しげな様子を見て、一体どんなことをされるのだろうと一抹の不安を覚えた。
だが、珊瑚を助けるためには怯えている暇はない。文は医者がニヤニヤしながら渡してきた同意書にサインし、病院を後にした。
:
その日の晩、部屋で眠らずに待っていると、約束通り帆次が迎えに来た。軽々と塀の上に乗り月夜を背にして見下ろしてくるその姿はさながら忍者のようだ。
文は帆次の背中に乗り、赤い橋の向こうへ跳んでいく。
海雲族の屋敷には数分で辿り着き、昨夜のように勝手に開く門から中へ入った。不思議な雰囲気を持つ帆次の父は今日はいないようで、照明器具の中の炎だけがゆらゆらと揺れている。
「ねぇ帆次、これ、今日お医者さんに借りてきた」
昼間に医者にもらった鱗生病の歴史に関して記してある本を渡す。これはあの気味の悪い医者ではなく彼の父、つまりあの病院の先代が遺したものだそうだ。
帆次は少し意外そうな顔をしながらその本を受け取る。
「何だよ、急にやる気だな。昨日は死ぬまでの暇潰しって感じだったくせに」
「今日分かったことなんだけど、友人がキャリアらしくて……」
「友人? 人魚族のことか?」
「そう。私を助けてくれた子なの」
帆次は一瞬、何か言いたげな顔をしたが、すぐに目を逸らして「そうかよ」と相槌を打った。
「その本によると、鱗生病は島に大昔からあったけど患者数はそこまで多くなかったみたい。感染が広がったのは、霧海村から村人が神様を運んできた時。そこで爆発的に広がって、長い年月をかけてゆっくりと減ってきてた。なのに、ここ最近発症する人がまた増えているみたいで」
「増えた? 初耳だな。まあ、島唯一の医者ってなると病人は皆あそこに行くから、そりゃ俺らより最新の状況に詳しくて当たり前か」
帆次が胡座をかきながらぱらぱらと頁を捲る。
「……ちゃんと読んでる?」
「読んでるよ」
「嘘だよ。適当に読んでるでしょ。ちゃんと読んで」
「活字苦手なんだよ」
「そんなので鱗生病の原因探せるの? 帆次が言い出した話なんだよ?」
むっとして言うと、帆次は少し面白そうに口角を上げ、文の頬を抓った。
「何だ、俺に噛み付いてくるくらいには元気出てきたじゃねぇか。ずーーーっと死んだ目して、生きる気力も何もないですみたいなツラしてたから、こいつ自殺志願者なんじゃねぇかってちょっと心配してたんだ」
「…………」
まさか言い当てられるとは思わず、じっと帆次を見返す。
そこでようやく気付いた。帆次は文のことを心配し、鱗生病の原因を一緒に解明するという〝約束〟をさせることで、何とかこの世に留めようとしたのだ。約束の内容自体にそこまで大きな意味はなく、文を自ら死なせないことが目的だったということである。
彼はケラケラ笑いながら文から手を離すと、
「ちょっと外出ようぜ。ここは景色が綺麗なんだ」
と言って立ち上がった。
文も慌てて立ち上がり帆次に付いていく。急ぎすぎたせいで着物の裾を踏んでしまい、転けかけたところを帆次に手で支えられた。
「おいおい、危なかっしいな。気を付けろよ」
背中に回った手の力強さを感じる。文は帆次のことを頼もしく思いながら体勢を戻し、彼の後ろに付いて屋敷を出た。
「……ねぇ、帆次」
「んあ?」
「私、帆次とどこかで会ったことがある? 私がこの島に来るよりも、もっとずっと前に」
帆次とは初めて会ったような気がしない。しかしどこで会ったのか思い出せない。
それにこんな美貌を持つ少年があの栃木の田舎にいたらあっという間に有名人になっているだろう。覚えがないということは栃木にはいなかったということだ。
では、この懐かしい感覚は一体――。
「誰かと間違えてんじゃねぇの。少なくとも俺は、文ちゃんとはあの橋の上で初めて会ったぞ」
「……だよね」
帆次自身に否定され、やはり岩にぶつかって頭がおかしくなっているのかもしれないと反省した。
海雲族の屋敷は民家や田んぼが沢山ある場所とは違い人の気配が全くなく、虫と蛙の鳴き声だけが響いている。
ススキだらけの道を通り抜け、屋敷がある位置よりも少し高い坂の上に着くと、帆次は空を指差した。
見上げれば、一面に星空が広がっている。無数の塵のような光が真っ黒な空を彩り、美しい景色を描いていた。
「……凄い。こんなに綺麗なんだ……星って」
文は口元を押さえて感嘆の声をあげる。
栃木の中でも田舎の方に住んでいたが、これ程美しい星空は見たことがない。
「だろ? 文ちゃんに見せてやりたかったんだよな」
「帆次はどうしてこんなに私に優しくしてくれるの?」
珊瑚が文を助けた理由は、文が霧海村の組み紐を身に着けていたから運命だと思ったなどという、夢見がちな女の子のような内容だった。
では帆次は何のために文を助けたのだろうとふと気になった。
「お前だって助けてくれただろ。俺のこと」
「……橋の上でいじめられてた時のこと? あれだけで? 随分義理堅いんだね」
「お前は分からねぇかもしれねーけど、この島で人に手を差し伸べられたことなんて一度もなかったんだよ、俺は」
帆次の横顔が少し寂しそうな色を浮かべているのを見て、文は少しだけ帆次の傍に近寄った。
いつか海雲族への誤解が解けて、帆次が人と仲良く肩を並べられる時が来ればいいのにと思う。
鱗生病の原因解明のために尽くすことは、助けてくれた珊瑚だけでなく、帆次のためにもなるかもしれない。
(生きられるうちはちゃんと生きて、私にできることをやろう)
今もまだ、油断すると茂との情事や母親の歪んだ顔が頭に浮かぶ。夢にも見る。その度に文は恐ろしくなり死にたくなる。
けれど――この島の神様は文のことを生かしてくれた。この余命に意味があることを信じようと思いながら、再び空を見上げる。
星の輝きに見惚れていると、今度は隣の帆次がじっと文の方を見ていることに気付いた。
「……お前、目の色、どうした?」
帆次が深刻な表情をしている。
次話:更新予定
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