山藍 韓藍 呉藍
山藍 呉藍
藍のことを調べ出した切っ掛けのひとつは、万葉集に詠まれている藍の表記からでした。古代日本の記録は和語にあてた漢字で表記されているため、理解が進まないものが多くあります。山藍、韓藍、呉藍の解釈に何故かしっくりこないまま、40数年もの月日が過ぎてしまいました。これらの解釈から青色を染める藍草が万葉集では詠まれていないことにも、なにも説明ができずに資料ばかりが増えてしまいました。興味のある方、詳細に調べたい方は一緒に考えてみませんか。
山藍(やまあい)の表記が見られるのは、紅(くれない)も一緒に詠まれている一首です。
原文[級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳<數>十引 山藍用 <揩>衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久](巻9-1742)高橋虫麻呂 「・・・紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り・・・・」
というように山藍が使われるときには、「染め」という表記ではなく青摺りとも記されたりするように「摺り染める」と使われています。古事記や平安時代の法律である令義解、延喜式のなかに見られる神事祭司の記述の中、紀貫之の詩歌にも記されています。この山藍は「トウダイグサ科の多年草。暖地に自生し高さ40cmほどに成長する。藍色を含んだ野性の藍草。この葉の液汁を用いて青摺衣をそめた」(染色辞典 中江克己編 1981)とあるように、山藍はタデ科の藍草とは違う植物だと推定されています。
「大和民族が発見したのは山藍で、藍の含有量が少なく、従って大陸から蓼藍が伝えられると、まず出雲族あたりからこれが用いられはじめ、やがて全く山藍が実用されなくなったものと考えられる。御即位式の際の小忌衣のように、特別の儀式にのみ、古来から今日に到るまで、この山藍摺の衣服を用いるのは、恐らくはこうした事情のためだろう」(生活と染色 上村六郎 1970)と述べられています。京都帝国大学で繊維・染色を学び、理学博士である上村六郎氏の他の書籍でもこの理論は説かれ「山藍は天皇部族の発見した独自性の藍である。と(自分は)結論をだしている訳である」とまで云っているのです。
従来から山藍にも藍の含有があると記されていることに、疑義をもった後藤捷一氏が化学分析をしてみた結果、藍(インジゴ)は含有していないことが確認されました。これにより万葉時代以前から使用されていた山藍は、生葉を搗いて出る汁から青磁色の染め、もしくは葉緑素染の緑色だとの考えが有力になってきました。葉緑素染ですと一晩での変色は免れませんし、水洗いには到底耐えられないと考えますが、現在も京都石清水八幡宮で採れる山藍を用いて、京都の葵祭、奈良の春日大社の衣装に使われているようです。
山藍がトウダイグサ科の草本だとしたら、紀貫之が数首読んでいる、山藍を含む和歌の意味が解らなくなります。神事の長さを詠うことで、その神に守られている天皇を賀茂祭で慶祝する意味を籠めた「ゆうだすき ちとせをかけて あしびきの 山藍の色は かはらざりけり」(新古今和歌集 賀歌 712番)と詠まれた 山藍の色はどう説明したらよいのでしょうか。
韓藍
万葉集では「韓藍」は「辛藍」「鶏冠草」などとも書かれていて4首詠まれています。「古くは色を染める材料、即ち染料はすべて「あゐ」であり、「韓あゐ」「山あゐ」「呉あゐ」或いは「紅草」ができるから「阿為山」と名付けたという古い記録(筆者補足:播磨国風土記)などすべてこれを物語っている」と上村六郎氏は考察し述べていますが、「藍」のことになると解釈が少し強引な印象があります。茜の染料の説明は理学博士として成分の分析もして、西洋茜と日本茜の染色方法の違いを説明しています。なのに、藍/あゐに関しての解釈は安易な結論に終止しています。初めて目にした時から疑問だらけでしたが、その後50年以上のあいだ染色研究者たちの異義もなく、新たな研究もなく多くの人がこの解釈を踏襲して論じています。
吾屋戸尓 韓藍<種>生之雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念(巻3-384)山部赤人
〈我がやどに、韓藍(からあい)蒔(ま)き生(お)ほし、枯れぬれど、懲(こ)りずてまたも、蒔(ま)かむとぞ思ふ〉
秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟(巻7-1362)
〈秋(あき)さらば 移しもせむと我が蒔(ま)きし の花を 誰れか摘韓藍(からあい)みけむ〉
戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来(巻10-2278)
〈恋(こ)ふる日の 日(け)長くしあれば 我が園の 韓藍(からあい)の花の 色に出でにけり〉
隠庭 戀而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八方(巻11-2784)
〈隠(こも)りには 恋ひて死ぬとも み園生(そのふ)の 韓藍(からあい)の花の 色に出でめやも〉
韓藍はケイトウ(鶏頭)であるといわれ、原産地のインドから中国、朝鮮半島を経由して天平時代に伝わったといわれています。平安時代に書かれた『本草和名』鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあい)とされていることからです。歌の内容から見て韓藍の花は、秋に花が咲き染まりやすい植物だと考えられます。
平安時代の和歌には「韓藍」の名は見えなくなり、再び中世になって取り上げられるようになります。奇妙なことに韓藍の色を青色としている歌も見えるようになります。
わが恋はやまとにはあらぬ韓藍のやしほの衣ふかくそめてき(続古今集 九条良経)
竜田川やまとにはあれど韓藍の色そめわたる春の青柳(壬二集 藤原家隆)
現在見られるケイトウは、江戸時代になってからの花弁を鑑賞する園芸植物です。花軸が鶏の鶏冠状になっているから、鶏冠草と呼ばれていたことが文字からも確認できます。韓藍という名前は摺染めに用いられたことに由来するともいい、赤い花を絞って染料にしたと思われますが、赤い色水はつくれますが染まることはありません。一晩で色は無くなり、茶色い染みが残るだけです。原種が現在のケイトウと違い成分が異なったとしても、薬用の記載はその後もありますが、平安時代には染料としての使用は廃れています。中世以降は紅色、青色を染める花として詠まれていますが、万葉集で詠まれた韓藍はやはりケイトウだったのでしょうか。
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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。