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藍と信仰 −琴平金刀比羅宮 大阪住吉大社 愛染明王−

   琴平金刀比羅宮

酒の神として信仰された松尾大社は全国の醸造家から信仰の篤い神社です。藍関係者が信仰した独自の神は特定されていませんが、愛染明王信仰が「愛染=藍染」と解釈して守護仏として信仰されています。真言宗檀家が多く真言密教の教えが盛んな阿波において、愛染明王を本尊とし藍関係者から信仰を集めた寺院はありませんが、愛染明王を藍寝床のある建物に安置して蒅作りの成功を祈願していました。苗床作りから、種蒔き、植付け、刈取り、蒅作り、出荷に至る過程の節目には民俗信仰が見られます。紺屋が愛染明王を信仰した理由として、明王の三目六臂にあやかりたい願望があったといわれ、煩雑な仕事の多い紺屋らしい願いがこもっています。

藍商人は海上運送の無事と繁栄を祈願するために、全国各地の住吉神社、金比羅神社へ盛んに訪れていました。大阪住吉大社、広島厳島神社、香川琴平金刀比羅宮、徳島勢見の金比羅神社には藍関係者が奉納した巨大な石灯籠や狛犬、玉垣などが寄進されています。琴平金刀比羅宮の登り口にある「金陵の郷」は藍商•野上屋の西野嘉右衛門が「酒造株」を取得したことから始まり、大御酒として親しまれています。野上屋が寄進した石灯籠も、旭社への途中の広場へ登ったところの石段の左側にあります。五人百姓の広場横の参道の左右には「阿波藍商人」寄進の玉垣も並んでいます。玉垣に刻まれた藍商人は、久次米兵次郎、三木與吉郎、久米曽左衛門、元木平次兵衛、手塚甚右衛門など関東売藍商の名前が多く見られます。

南神苑の近くに阿波町の名称が残るのは、阿波国の人たちとの商売のための町といわれ、阿波より大勢の人々が金刀比羅参詣で訪れていました。南神苑の前の道は阿波箸蔵寺へ続く旧阿波街道の金毘羅口で、阿波からの参詣客は金刀比羅宮奥の院と呼ばれる箸蔵寺も併せて参詣することが多かったといいます。金刀比羅宮は江戸時代、金光院金毘羅大権現と称していて神仏が同体であるとする信仰でありました。明治初年の神仏分離令で金刀比羅宮となり神社に変更します。金毘羅の語源は梵語のクンピーラでその音訳です。クンピーラはガンジス川にすむ鰐が神格化されたもので、中国では金毘羅竜王と称し、日本では金毘羅大権現となり海上守護神として信仰されることになります。空海が建立したと伝承される箸蔵寺の本尊も金毘羅大権現です。

   大阪住吉大社

徳島市勢見の金比羅神社は九メートル余りの石灯籠で日本一といわれるくらい立派なものですが、同じく藍玉大阪積株仲間が大阪住吉大社に寄進した石灯籠も見事な一対です。天保2年(1831)に献灯され「永代常夜燈」頼山陽:筆と書かれた石標もそえられ、北参道一の鳥居の右奥にあります。海上守護の祈願をこめるとともに、広告塔としての意味合いもあったといわれる名筆石灯籠です。住吉大社は全国約2300社の住吉神社の総本山で、藍商人や海上運送の関係者の崇敬を集めていました。石灯籠も藍商以外で撫養(鳴門)、那賀郡などの廻船業のものが見られ、当時の海運関係の繁栄が想像できます。境内には様々な地域から寄進された石灯籠の数が大小あわせて約620基以上も残されていて、元禄年間(1688–1703)以降に奉納されたのものが圧倒的に多く、各業界の石灯籠からも大坂を中心に商品が活発に流通していたことや、貨幣経済や町人階級の経済発展の様子がわかります。

藍商人たちは全国の売場へ海上運送で藍玉を搬入し、問屋経由で仲買が紺屋へ売りさばくのですが、売場先では相互協調のため仲買は京都在に得意先を持つ者同士が祇園講、大和売が春日講というように仲間を結成していました。そして祇園講は八坂神社、春日講は奈良春日明神へ常夜灯を寄進しています。同業組合のような株仲間が信仰を軸に展開しているようにも窺えます。

大坂販売機構は古来からの由緒・実績・慣例があり大変複雑で、幕府の保護もあることから藍商人とは紛争が尽きませんでした。大阪四天王寺勝鬘院多宝塔に安置している愛染明王の信仰を軸に、大坂問屋と徳島問屋と仲買の利害関係の協調機関に愛染講があり、阿波藍師と大坂仲買・愛染講との相互援助機関ともみれる記録も残されています。天保14年の天保改革によって株仲間解放なども経て、明治10年頃まで存続していたようです。

伊勢神宮参拝の「伊勢講」住吉大社内市戎の「信心講」讃岐金刀比羅宮の「金平講」などは、商売繁盛の祈願と同業懇親とを目的にした利害関係のないものもあったようです。

石灯篭 阿州 藍玉大阪積株仲間 

   埼玉県宝乗院愛染堂 愛染明王 高城神社

関東では江戸時代後半から綿業の発展が始まり、利根川流域では藍生産が急成長します。埼玉県熊谷市に享保11年(1726)に建立された宝乗院愛染堂は、関東一円の藍染を生業とする紺屋など染織業界から江戸中期から昭和にかけて信仰を集めました。愛染堂の本尊は愛染明王坐像で江戸時代前期の作といわれています。空海によって日本に伝えられた愛染明王は愛情などの敬愛を祈るほか、息災・増益・調伏を祈る仏として鎌倉時代以降に広く信仰されるようになります。「愛染」が「藍染」に通じることから染物・織物職人などの守護仏としても信仰される事になります。

堂内や境内には、各地の愛染講中から奉納寄進された絵馬、灯籠、鉢、燭台、水屋、石碑などが残されていて、奉納者は埼玉、群馬、栃木、東京など広範囲に及んでいます。

藍染絵馬は商売繁盛や技術向上を願って紺屋などが奉納しています。江戸後期から明治期にかけて奉納されたこれらの絵馬は、藍染の各工程作業に励む職人や原料である藍玉を作っている様子などが描かれています。浸染めする人、庭先で商談する人、意匠に工夫を凝らす人、屋外で引き染めをする人といった多様な職人の構図や仕事場の様子から、地域で藍が栄え活気ある有り様を伺うことができます。

2015年の修理工事の過程で御堂に掲げられていた奉納額が見つかり、明治21年(1888)に業界団体「西武藍商」名で奉納されたものでした。揮毫は尾高藍香で、富岡製糸場の初代場長に就任した日本の製糸業を興した尾高惇忠です。隣接する深谷市は藍栽培が盛んな土地で渋沢栄一、従兄弟で師でもある尾高惇忠の生家は藍栽培藍玉作りに携わっていました。

熊谷市指定有形民俗文化財に指定されている青銅製の「常夜燈」が残されている高城神社は、延喜式神名帳にも記載される式内社で熊谷郷の総鎮守とされています。 常夜燈は天保12年(1841)に藍染業者によって寄進されたものです。円筒形の台座の周辺には寄進者150名の名前が刻まれ、熊谷宿と近郊の農村部の他、遠くは桐生町、足利町、江戸、川崎、伊勢白子などの地名があります。特に江戸の職人である紺屋、形屋、張屋の人たちはかなりの数になっています。明治維新前は高城神社で本地仏として愛染明王を祀っていたことから、紺屋業者の信仰を集め、遠く京都・江戸の紺屋職人講中による奉納も多かったようです。

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/

2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。


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