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阿波藍の技術移転-愛知県 京都府

   愛知県(尾張国)

正保2年(1645)発刊の『毛吹草』は京都の俳諧師、松江重瀬によって書かれたもので俳諧の作法書ですが、全国の特産物なども取り上げています。その中で藍の名産地として、山城・尾張・美濃が記されていることから、尾張・美濃は早い時期から栽培を行い世間にも知られていたと思われます。元文2年(1737)ごろ成立した『尾陽産物志』には藍栽培が中島郡・丹羽郡・海西郡の地域で行われていたことが書かれています。

19世紀に入ると尾張藩は藍の生産奨励と統制を始め、文化3年(1806)には葉藍を集荷させ、干鰯を配給する場所として海東郡津島(海部郡津島村・津島市)に藍製作所を設置します。4年には葉藍仲買人仲間を設定し、9年には小河屋治郎左衛門を地藍売買問屋とし地藍製作方世話役、地藍仲買締方、地藍仲買を任命します。その後文政7年(1824)には尾州藍の品質を改良するために、京都から人を招き製法伝授を試むことや葉藍仲買人の分布調査も行います。この頃の藍は中島郡・海東郡・海西郡で作られ、海西郡二子村(海部郡八開村・愛西市)は藍仲買人が9人と一番多く、木曽川と長良川が流れる水はけの悪い低地で栽培されていました。尾張藩は天保期にも再び統制を行い、天保3年(1832)に服部源左衛門を藍売買問屋と締方支配役とします。

文化期ごろ阿波藍仲間に尾州藍の販売依頼があったようですが藩は拒否し、天保6年再びの依頼には江戸藩邸が考慮して一年100俵(推定)を許可したそうです。江戸売阿波藍仲間では、他国藍の取扱いは詳細な申合せをしていましたが、幕末になると了解を経ず行われるようになっていきます。そして元治年間(1864–65)には700~800俵が江戸市場に供給できる生産量になりました。

明治になり輸入紡績糸の自由化によって濃尾地域の棉栽培地帯は急速に消滅し、藍の栽培が盛んになりました。明治14年海東郡・海西郡の農民が、阿波より多田弥寿平を招き藍の栽培・製造の指導を受けます。好結果を得たのを見て16年には宝飯郡・渥美郡・八名郡も連合して多田弥寿平を招き、阿波の方法を取入れ藍作を試みます。このときの結果は、17年に宝飯郡長が愛知県勧業課に文書を提出しています。肥料代が高くなっても一番葉の収穫が48%増加し、葉藍価格も43%高く取引されて、三郡とも購入促進が増加したことを報告しています。

明治30年の統計では4,129町歩(ha)と阿波に次ぐ栽培面積なっています。しかし40年には351町歩と他の地域より早く激減したことは、愛知県が近代的工業経営を織物業に導入し、地元の商人・地主・機屋・染物工場などの関連企業によって近代紡績業を完成したことと関係があると思います。

   

   京都府(山城国)

桓武天皇のとき奈良の平城京から長岡京、延暦13年(794)に平安京へと遷都がなされ、山代(山背)国葛野・愛宕郡にまたがる地に新しい都が建設されました。山城国と改名し都の東西を流れる鴨川や桂川沿いに淀津・大井津を整備して、全国の荘園や国衙・郡衙から集めた物資を都へ運び込む流通を整えました。租・庸・調として各国に物資が課せられ「乾藍三斗三升三合三勺」は庸として諸国から運ばれ、政府や宮廷用の織物を供給する大蔵省「織部司」のもと先染の藍染の染戸が33戸(大和29戸・近江4戸)と、宮内省「内染司」のもと後染をする染戸によって藍染が行われていました。

鎌倉時代には商工業者の職種別結合の座が多く結成され、藍関係も石清水八幡宮の紺座、京都九条の寝藍座がありました。最大の都市であった京都は情報量も多く、青屋、紺屋、紺掻などの商工業の活動が史料に残されています。17世紀後半になると各土地に名産物が根付きだし、特に山城国は名産物が多く染織品に関する絹織物や染物・絞りなどや原材料、道具類などの特産物が発達していました。『毛吹草』1638成立・正保2年(1645)刊行に藍の名産地として山城が取り上げられ、『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中では藍産地では京洛外が一番良いと書かれています。

優れた京洛外の藍とは「洛南の藍」として東九条村付近を中心に、古くから栽培されていた藍のことをいいます。この辺りは水陸交通の要衝で、鴨川と桂川が合流する湿地帯に「水藍」とよばれる水田で作られる藍を栽培していました。東寺百合文書のなかにも、永享3年(1431)7月東寺と寝藍座との間での論争があり、東寺の境内で藍を干す作業が禁止されています。

大田倭子氏は先祖が藍作地主だった津田善四郎を調べて刊行した『藍は生きている–九条寝藍座』(2010・審美社)の中で、東寺周辺の藍の事を書いています。東寺の近くにある福田寺にある「阿波屋宇兵衛」墓碑と先祖・津田氏との関わりは、興味深い出来事です。天明の飢饉で藍が不作になり値段も下がり困窮していたとき、どういう事情でか阿波の藍師宇兵衛が逗留して京都の藍を改良したと伝えられ、その後藍は再び作られ、文化12年(1816)には藍大市に出荷したということです。その後宇兵衛は阿波で斬首刑になり長年保留していた供養を、天保2年(1831)に三十三回忌のとき墓碑が建てられたということです。「Show you」15(1998発行)の記事によれば、明治の初期には京都府紀伊郡東九条村(京都市南区)には10軒の藍農家が存在しています。

京都府の藍の栽培面積は明治30年368町歩(ha)、40年203町歩、大正2年56町歩となり、大正時代に京都の最後の藍産地となった福知山は、古くから由良川沿いで藍栽培の盛んだったところです。ここは室町時代の1473年に松尾神社の荘園だった雀部庄で、藩政時代は丹波福知山になり後の筑後藩主・有馬豊氏の所領でした。

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/

2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。

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