
矛盾する「真実」を同時に信じる社会
今の時代に「地球は平らだ」と信じている人(フラットアーサー)がいる。
彼らに科学的証拠を突き付けたら、考えが変わるだろうか?
「目を覚まさせてくれてありがとう!」と言うだろうか?
そうなる可能性もある。
けれど、自分の信念とのギャップが激しすぎて、
多くの人が証拠を認めないか、証拠を都合よく解釈してしまうだろう。
人は信じているものをおいそれとは変えられない。
私たちは、フラットアーサーを無知だとは馬鹿にはできない。
「地球は太陽の周りを廻ると言っていいなら、
太陽は地球の周りを廻ると言ってもいい」と主張したらどうだろうか?
「それは『天動説』だろ間違ってる」と思った方、
実は、私と話してる前提が違っている。
天動説は、
地球を中心として太陽や惑星が「円形」に周回している説を言う。
円形の軌道でないならば、太陽は地球を廻っていると言っても
間違いはない。
例えば、2つの電車がすれ違い、互いに反対方向へ走り去るとき、
片方の電車に乗っていれば、
もう片方が勢いよく走り去っているように見えるし、
逆の電車に乗っていれば同じことが起こる。
これは、物理学の原理となっている。
けれど、そういう相対位置のことではなく、
天動説の話だと思い込んでいた人には、
受け入れがたい気持ち悪さを感じた人がいたのではないだろうか?
証拠が突き付けられても、人はそう簡単には頭を柔らかくはできない。
「正しい」証拠があるうちはまだいい。
「正しさ」を証明できなかったり、
情報が錯綜して混乱をきたすこともある。
そうなると、人は精一杯頑張っても、「唯一の真実」には到達できない。
それでも賢明な選択をして行動しなければならないとき、
人は「自分の中で正しいと思えるものを信じる」ようになってくる。
それが実際正しいかどうかは誰も全く分からない。
兵庫県知事選挙において、情報は錯綜した。
メディアの情報が「正しくない」と結論付けた人は、
「真実」が声高に叫ばれているSNSの情報を信じた。
SNSの煽られた情報を丹念に検証した人もいた。
しかし、結局訳が分からなくなったり、
斎藤氏に賛成か反対かという二者択一を突き付けられ、
各候補者の吟味ができなくなった。
もちろん、考えた結果斎藤氏に投票した人もいるだろう。
兵庫県に住んでいない非有権者もまた、
同じように混乱したり、熱狂したり、また傍観して、
「これは民主主義の力だ」とか「暴力的に煽られた結果だ」ということを
真実と「解釈」している。
ここには「解釈」の数だけ「真実」がある。
そして、誰もどれが本当に「真実」なのかわからない。
民主主義なので、一応「数の正しさ」はあることになっているが、
真実が分かれば、唯一の正解が導き出されるということではないのだ。
ここでアニメの話をさせてほしい。
攻殻機動隊 SAC_2045という作品だ。
この作品は、人類が高度なネット社会を構築した状況での、
犯罪や社会情勢をSFチックに描いている。
このアニメはもちろんフィクションであり、
それをそのまま現実に置き換えることはできないが、
現代社会の一面を切り取っていると感じられる要素がある。
それは、
「ネットと現実の二つの異なる環境と思考方法を同時に受け入れている点」
「現実の苦痛はネット上での心境によってバランスを取ろうと試みられている点」
そして、何より、他者とのコミュニケーションを円滑にするために、
「ネットによりみんながそれぞれ矛盾する歴史と事実を経験している」
ということだ。
今起きていることは1つなのに、
矛盾した異なる事実を経験することはありうるだろうか?
人とのコミュニケーションの難しさを考えると、
それはうなずけないだろうか。
強く言ったわけでもないのに、
相手はプレッシャーを受けたと感じてしまう。
相手の態度を見て、伝えたと思っていたが、
まったく理解されてなかったことなど。
人と人はそれぞれ使っているコンテクスト(文脈)が違い、
そのコンテクストが違えば、起きた事実に対する解釈も違い、
事実がどうであったかという「真実」も違うのだ。
歴史などは、自国が存続するように事実が解釈される。
インターネットが発達して、人の興味や行動のデータが蓄積し、
フィルターバブルという現象が生まれた。
好きなもの・興味のあるものはAIによって無限におすすめされ、
信じていることはますます信じる狂信的な落とし穴が広がった。
SNSではこの現象がもう一段階進んだのではないか。
つまり、SNSだけでなく、現在のアメリカや日本は
信じるものを信じ、それはそれぞれの人にとって「真実」であるという、
攻殻機動隊に描かれていた要素が社会情勢になったのではないかと。
ただ、攻殻機動隊の作品では、
それぞれが各々の真実を信じることによって、
心の平和が保たれるように人類は進化したが、
現実では、お互いの信条を否定する議論や非難の応酬になっている。
どちらにしても、相手の「真実」を変えることは、
とても高いコストが付くようになったということだ。
そして、「真実が見えない」と不安になる人に対しては、
「これが真実だ」とマーケティングし、
洗脳することができる陰謀論は格好の「商品」となった。
おそらく、今の誰もがフラットアーサーだ。
違うものを信じている他人から、証拠を突き付けられ、
論破されそうになったり、「説得・洗脳」されそうになったりする。
こういう時生きるためには、2つの大きな生き方が考えられる。
自分を安心させる「真実」を盲目的に信じて、
他を無視する可能性の狭まった生き方をする。
あるいは、これから無限に生まれる「正しそうなもの」から、
賢明に選択して「信じなければならない」という苦しみを
引き受けていく生き方をする。
もちろん、日常生活では後者の生き方ができるのに、
政治になるとすぐに沸騰して、過激になる人がいる。
今もこれからも役立つのは、
歴史きちんと揉まれた宗教、
1+1=2の確かさを持つ科学、
人類の知識とあてにならない幻覚を持ったAI、
そして意外にも、だまされないための警戒心と生存本能かもしれない。
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