モンスの天使 ~占いと預言のジオメトリー・補遺Ⅱ~
この度の連作短篇の補遺の一つ、特に『アリアドネ』のテーマと構成の補足として、とある歴史上の事件の解説をしたいと思います。
『アリアドネ』はホルヘ・ルイス・ボルヘスの架空の短篇と、ガイアナのジョーンズタウンで起きた実際のカルト集団自殺事件をベースに描きましたが、着想の時点ではもう一つの事件を利用するかどうか迷っていました。しかしながら次点のモチーフは、テーマは同じでも真逆の結果を生んだ事件でしたので、なかなか作品中に取り込むのは難しく、補遺としてここに書き留めておきたいと思います。
それが第一次世界大戦における”モンスの天使”です。
1914年8月23日、英仏連合軍とドイツ帝国軍の激しい戦闘が、ベルギー都市のモンスで勃発しました。
戦力は装備、兵力ともにドイツ軍が勝り、戦闘を続ける事4日、連合軍は徐々にドイツ軍に包囲され、戦力を減らしていきました。
8月26日、連合軍の残る部隊は2連隊ほどまで減り、戦闘継続が不可能と判断した司令官は部隊の撤退を決定します。
しかし撤退戦と言うのは、敵に背後を向けて後退する訳ですので、作戦や戦闘の中でも最も難しく大規模な犠牲が出るというものでした。
英仏連合軍が意を決してモンスからの撤退を開始し、そこにドイツ軍が攻撃を仕掛けようとしたその時―――
戦場を望む高台に、白いローブと甲冑と言う近代戦には有り得ない姿の無数の人影が現れ、彼らは長弓を持ち、高台からドイツ軍に向かって次々弓を射ていきます!
謎の部隊から予想外の攻撃を受けたドイツ軍は混乱し防戦に努め、撤退する連合軍はほぼ無傷で撤退を完了した、と言う事です。
ドイツ軍は結局、高台の上の謎の集団の正体が何物か確認する事は出来ませんでした。
―――以上が”モンスの天使”のあらましで、事件の後にイギリスの幾つかのキリスト教団体はこれを正式な”奇蹟”として認定しました。
ですが、これは当時新聞社に勤めていた幻想作家アーサー・マッケン(”パンの大神”の作者)が、モンスの敗戦を聞いた後に着想を得て、それを元に書いた幻想小説”弓兵”を新聞に掲載し、それが何故か事実として広まった、と言うもので、マッケンも短篇が架空の物語である事を何度も紙面で解説したそうです。
さて、マッケンの天才的な文章力だけでこれだけ現実に有り得ないデマが事実として出回るのでしょうか?私はそれ以外に3つの理由を挙げたいと思います。
・欧州人が始めて経験する近代戦、なおかつ総力戦だった。
理由の一つとして、マッケンが短篇を描く以前から兵士が戦場で天使や中世の騎士を見た、という事例や噂が度々あったと言う事です。
こういった幻覚や錯誤は過度の疲労時や出血時、あるいは神経衰弱の時には病気じゃなくても起こるものです。
塹壕の中で榴弾や重砲の猛攻にひたすら耐える戦闘は南北戦争のアメリカで本格的になり、それ以外の土地では第一次世界大戦が欧州初だったと言えます。
その反面、まだ連絡は伝令と伝書鳩に頼ってる時代でした。
人類が未体験の刺激を受けた後、何処からとも無く現れた味方の遊撃部隊が、天使や騎士の姿に見える事は決して否定できない事ではないでしょうか?
・欧州における神智学ブーム
もう一つは当時キリスト教神智学(近代グノーシス主義)が欧州でブームとなり、一種のオカルトの先駆けと成っていた事が挙げられます。
神智学はロシアのマダム・ブラヴァツキーがキリスト教にインド哲学を織り込んだ所から始まり、ノーベル賞作家でもあるアイルランドのイェーツ、ラッセルAE、イギリスのエリオットなども傾倒し、後にアメリカのエドガー・ケイシーなどに繋がって行きますが、基本的にはキリスト教に無かった輪廻転生や唯心論に大きく偏った一派です。
彼らはフリーメーソン、薔薇十字、黄金の暁、シオン修道会などの秘密結社を作り、その起源を古代に設定し箔を付け会員を集めてましたが、アーサー・マッケンなどは一次加入したものの、興味を引かれず直ぐに脱退したそうです。
そして、”モンスの天使”事件を取り上げ、正式な”奇蹟”と認定して既成事実にしたのはこういった神智学の団体だったのです。
実際の目的は秘密結社の規模拡大だったのか、神智学の拡大だったのかは今では不明ですが、当時の欧州がこういったものに傾倒してたのは重要なポイントかと思います。
・国威高揚
あとイギリス政府の政治的目的もあったのでしょう。”モンスの天使”は一種の社会現象とまでなりましたがイギリス政府は否定する事はありませんでした。
第一次大戦の緒戦はドイツ帝国に押されていた事も在り、政府がプロパガンダを流さずとも、民衆からこういった話が出てくるのであれば、渡りに船、だったわけです。
・・・・この様に、現実有り得ない新聞の幻想小説でも、条件が揃えば既成事実化していくと言う、ある意味、”現在のネットワークが有る時代で最も注意しなければいけない”事例が1914年に起こったのが”モンスの天使”と言えますね。
『アリアドネ』はそれが崩壊していくという物語ですが、情報を常に疑わなければ、第二の”モンスの天使"は簡単に起こるんじゃないかと思います。
今の日本でも、何十年も大手新聞が存在しないものを既成事実化していた例もありますしね。
では今夜はこのへんで(・ω・)ノシ
拓也◆mOrYeBoQbw(初出2015.03.14)