占いと預言のジオメトリー Ⅵ.アリアドネ
「預言はことごとく実行されなければならない」
僕たちはその言葉と共に、壁も無い、継ぎ目も無い、
最果てさえ見えない迷宮に閉じ込められていた。
―――ある学生の独白
これらグノーシス一派に属する者にとっては、可視の宇宙は、
幻想か、(より正確には)誤謬である。
鏡と父性は忌まわしい、宇宙を増殖させ、拡散させるからである。
―――ホルヘ・ルイス・ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
僕たちは理学部の講義が休講になった午後、僕たち以外の客が居ない学食で、他愛も無い会話をしていた。様々な話題―主に僕たちの専攻の物理学だが―を経由した後、量子物理学の素粒子の挙動に関しての話題に差し掛かり、
「そういえば、無限の計算能力が有ればどんな未来でも預言できると言う証明をした人がいたよね?」
と、当時の僕の恋人であった那魅子がそう語り出した。
僕や友人は直ぐに、その証明と言うのは数学者ピエール=シモン・ラプラスが定義した「ラプラスの悪魔」であり、丁度話題に挙げた量子力学のシュレディンガー方程式によって既に否定されてる、と指摘した。
だが、那魅子は落ち着いた物静かな語り口で
「古典物理の証明じゃなくて、もっと現代数学を使った、ちゃんとした証明だったと思うのだけど・・・」
僕は専門外の数学や経済学に関する記憶や知識を総動員していたが、何一つ思い浮かぶものは無く、その場に居た中の2人はタブレットやラップトップPCを使って検索を始めていた。すると然程時間も掛からずに、
―JWJ方程式理論―
その証明はあっさり見つかった、幾つかの電子辞典に載っており、1955年頃にインディアナ州のジェイムズ=ウォーレン・ジョーンズによって提唱され、1963年に数学的な証明が完成したと記述され、その下には所々に僕が見知らぬ行列式や複雑な数式と数学用語が用いられた証明が羅列されていた。
曰く、その複雑さゆえ良く知られてはいないが、天気の予測や経済予測には当然組み込まれている数式であり、尚且つ計算能力が向上すれば向上するほど、未来に正確に近似していく、という理論であると電子辞典は結ばれていた。
僕とその場に居た半数はそれを見た後でも懐疑的だった。
それは何故かと言うと、量子物理学の根幹であるシュレディンガー方程式は「確率のみ存在し、未来が確定する事は有り得ない」という紛れも無い事実を証明しているからだ。完璧な預言など有り得ないのである。
電子辞書の全てのJWJ方程式理論に関する項目は、量子力学との整合性を無視していた。
世界中の誰でも編集可能な電子辞書、と言う点も疑惑を深くした。
しかし僕たちの中でJWJ方程式の矛盾や証明の不備を指摘できる能力が有る者は誰もおらず、その場は結論が出ないまま、
僕は電子辞書の参照欄に書かれた論文名と、アルビオン国際百科事典(世界標準の最も有名な辞典)の項目、参照すべきページを手帳に書き取っておいた。
直後、自宅に帰った僕は最新のアルビオン百科事典のDVDをパソコンに入れて検索を行ったが、案の定文字列や項目がヒットする事は無かった。
念の為、本の百科辞典(この辞典は2003年で書籍・紙媒体の発行を停止していた)も確認したが、結果は同じだった。
翌日の夕方だったろうか、僕と一緒に居た那魅子の携帯電話に連絡が届いた。彼女は嬉しそうに(今となってはその顔もはっきり思い出せないのだが)
僕に携帯を渡した。
「今、学部の図書館でアルビオン辞典を見てるんだけど、確かに書いてあったよ。確かにネット上のと同じ様だ」
昨日一緒に居た友人の一人が受話器の向こうでそう話した。
一夜空けて、那魅子と友人数人と僕とで図書館を訪れ確認してみると、確かにその辞典はあった。
総ページを確認すると僕の所有するものとは4ページほど多く、”し”や”J”の項ではなく巻の最後の付属資料の所に追加される形で書いてあったのである。
友人達と那魅子はこの聞き慣れぬ証明が本物であると言った。僕もその場のでは否定する材料が無く曖昧な肯定をするに留まったが、脳裏には一つの大きな疑惑が浮かんでいた。
その版のアルビオン百科辞典によれば、JWJ証明は原理と予想が1955年(折りしもアインシュタインの没年だ)に提唱され1963年に完全に証明されたと記してあった。
しかしながら僕は電子辞典と図書館で発見された百科事典に載っていたその証明に、リッチ・フロー定理と言う1981年に発見された手法が使われてるのに気付いていた。
僅かばかりの数学的知識と参考書を頼りに、僕はその当該箇所を確認しノートに書き写していった。
最初と同じ食堂に最初と同じメンバー全員が顔を合わせていた。
僕の纏めたノートの効果は非常に大きかった、順番に辞典のコピーや電子辞典の記述と照らし合わせ、”JWJ方程式理論”なるものが誰かのおふざけや虚構の類だと言う事を皆が納得してくれた。
残る問題はこれほど凝った悪戯を(電子辞典は兎も角、発行されてる大辞典の複製捏造は困難だ)誰が行ったのか、目的はなんだったのか、皆で色々話し合ってはみたが、当然何の手掛かりも糸口も無く、
その場を解散してから日に日に僕たちの記憶からその謎は薄れていった。
―――そして―――
最初の殺人は約一ヶ月後に起きた。
僕たちに百科事典の存在を最初に連絡した友人が死んだのである。
死因はアルコールと市販薬の飲み合わせによる事故だった。警察は不審死であるため捜査を始めたものの、やはり事故死の線を中心にしており、死因の概要のみを聞かされていた僕たちも、これが殺人である事は当時は気付く事は無かった。
ましてや、最初の一人の死が”警告”であったとは、頭に浮かぶ所以も全く存在しなかった。
その一人の死もあって、僕は一人で大学図書館の、彼が見つけた百科辞典を探したが、貸し出し不能のはずのその本は図書館の棚から紛失していた―――
そして電子辞典の確認――これは項目は削除されてなかったが――をしてみたが、驚いた事に証明の数式が既に書き換えられて、丁度僕の指摘した、1981年の理論を使った箇所は綺麗さっぱり消え、他の式が挿入されていた。
僕は一抹の不安と不気味さを覚えた。
現実に消えた本は1冊、改竄された箇所は僅かであるが、これが巨大な氷山が海上に突き出しているごく一部であり、海面下には想像も出来ない巨大な氷塊が蠢いているのではないか、と。
そして第二の殺人が行われた、キャンパス内の爆発事故だった。
これで顔を合わせていた大部分が亡くなってしまった。取り壊し間近の古い校舎で彼らは老朽化したガス管の爆発と建物の崩落によって亡くなったのである。
当然国立大の事故で犠牲者も複数だったため、マスコミも大きく取り上げていたがその内容は殺人事件としてではなく、管理してた大学の運営問題、あるいは建て替え予算の交付の遅れなど、下らない権力闘争の論争を煽り、ただ繰り返すばかりであった。
一方、警察は薬物による死亡と今回の事故が続いたため、本格的な科学調査に乗り出していた。それによりいずれ他殺や犯人の残した証拠が発見され、解決に向かうのは時間の問題だと僕は思った。
しかしその”時間の問題”は、僕にある種の絶望をもたらした。
つまり警察が犯人に辿り着くまで、犯人には僕たちを殺す時間は有り余るほど残っているからだ。
残ってたのは、僕と那魅子の二人だけだったのだ。
僕は今までの記憶やノートを何度も洗いなおした。
僕が死を回避する可能性は現実的に極めて低いだろう、手掛かりの無い暗闇、あるいは数メートル先も見えない深い霧の中で、ただただ道標となる一本の細い糸を手繰り寄せようと必死になっていた。
しかし一つ短い時間で可能な事があった。
それはこの犯人と目的にできる限り近づく事だ。完璧に正体を暴く事もまず不可能だろうと思えたが、何らかの、正確に情報を残せる手段を使い、警察かあるいは賢い人に伝達すれば、いずれはこの犯人と目的に辿り着く人がいるかもしれない。
あるいは、過去に僕と同じ事を考えた人が何処かに証拠を残してくれてるかもしれない。そして僕は―――
インディアナ州のジェイムズ=ウォーレン・ジョーンズ、JWJ方程式理論の発案者、彼の名前から一つの事実に辿り着く事が出来たのである。
まず僕は数学者としての彼の経歴は嘘だと考え、名前の順番を並べ替えたり、あるいはアルファベットからアナグラムを作り出し可能な名前や文章を作り出して検索してみたが、全て徒労に終わっていた。
僕は更に単純な方法を試してみる事にした。ネットから”消された”ジェイムズ=ウォーレン・ジョーンズと同姓同名の人間の記録を片っ端から調べようと思って、ネットアーカイブにアクセスしたのである。
そして、トップにヒットしたのが「ジェームズタウン」創設者ジム・ジョーンズである。
彼はアメリカのカルト教祖で、当初「人種差別撤廃」を訴え時代の寵児として持て囃されていたが、実際にはジョーンズ自身の主張とは裏腹に、信者の8割以上が有色人種でありながら教団幹部は白人のみで構成されていた。
都市の下層民を収容し、福祉サービスを供給するコミューン(公社)としての性格も有していたとされた。
しかし、その実態はジョーンズとその一派による独裁団体で、次第に脱退信者やマスコミなどから批判を受けるようになった上にジョーンズも大麻・薬物に強く依存し、強迫観念に駆られるようになった。
そこでジョーンズは南アメリカにある、ガイアナへの集団移住を決意する。なお、この頃には極左思想に傾倒し、かねてからジョーンズ自らがシンパシーを寄せていた共産主義の到来を唱えた。
そしてガイアナのジャングルを切り開き「ジョーンズタウン」を作ったのである。
その実態は強制労働、薬物汚染、暴力に支配されたコミュニティで、本国アメリカでも社会問題となった、ジョーンズは信者達に明るい未来を預言し、外の世界の情報や人間達は嘘であると思い込ませて、視察に来たアメリカの議員とマスコミのクルー達を射殺したのである。
そしてその事件の同日、ジョーンズの指示により全ての信者達が集団自殺を図った。
「ジョーンズタウン」で暮らしていた信者の約9割の914人が死亡した。その内の267人は18歳以下の子供であった。
ジョーンズ本人は拳銃自殺した、タウンの生存者は200名弱、それが1978年――
僕は真実を見つけ出したと確信した。(あるいは今思えば死と言う現実に直面して、そう自己暗示を掛けたのかもしれない)
JWJ方程式理論、この出鱈目な預言方程式は、ジョーンズを本当の預言者へと昇華させる時限爆弾なのであり、今もなお生き残った信者や子孫がその実現へと動いているのである。
ネットや大学図書館は既に侵食されている、いずれは信徒の数学教授や物理教授がJWJ理論の講義を開始していく、
遅かれ早かれ学会でも正式な論文が提出されるのであろう。
そうなれば今までの学問は歪められ、アインシュタインやシュレディンガー、ディラックに代わりジョーンズの名が科学史に刻まれ、更に預言者としての地位も確かなものにしていくのは想像に難くない。
僕の思考がここに至る事で、もう一つの事実が明らかとなっていた。
那魅子もまた信徒の一人なのである、年齢的には事件の後に生まれているが――
そう考えると、図書館の百科事典の処分や電子辞典の修正は僕の反論を聞いた彼女が主導したのであり、それが可能な人間で生き残っているのは既に彼女一人だけなのである――
そういった僕の(ある種の狂気と表裏一体の)推理は、時間を置かずにほぼ全て証明される事になる。
「私達には貴方みたいな人が必要なの」
那魅子は微笑んでそう言った。彼女の後ろには見慣れぬ男が3人控えていた、間違いなく彼らも信徒であり実行犯のメンバーなのだろう。
「預言は実行されなければならない、”彼”はそういい残したの」
現実的とは言えないね、科学調査や警察の調査もそうそう誤魔化せないだろうし
「貴方、この国は信教の自由が保障されてるのを忘れたの?何処にもどの組織にも仲間は居るのよ」
僕が矛盾を見つけたように、最後は誰かに理論の矛盾を指摘されて終わりだよ
「だから賢い人達を集めているの、命と天秤に掛ければ、人は事実を簡単に歪めるのを知ってる」
JWJ理論を何度否定しても君たちには無関係のようだね
「そう、否定されたら書き換えればいい、理論も預言も同じ事よ」
「結局は強者が書き換える事で、過去の預言者達も預言者でいられる」
「”彼”はその真理に辿り着いたの、”彼”は預言者に成るのよ」
・・・・明日、君達に返事をしようと思う、それまで待ってくれないか
「わかったわ」
―――1日が過ぎ―――
僕は那魅子と控えてた男達に、一つの言葉を与えた。
彼女達は暫く黙ったまま口を噤んでいたが、時間と共に表情を混乱、怒り、悲しみ、最後に虚脱に変えて、最後にはそれぞれめいめいが、死人の様な土色の疲労した顔をしながら僕の前から消えていった。
那魅子は翌日自ら命を絶ち、遺書に学生達の死は自分に原因があったと書き残した。
そして約一ヵ月後に、都心から離れた市の山中で集団自殺した3人の男も見つかったという。
最後に僕が彼らに与えた言葉を残しておこう。
”人は完璧な預言も預言者も望んでいない、ゆらぎの無い完璧な未来はことごとく悪夢だからだ”
”人が欲するのは曖昧で脆く、如何様にも解釈できる占いと占い師だ”
”人は不確定と言う、ゆらめく深い霧の奥に希望を見出す存在だからだ”
”人は完璧な預言も預言者も望んでいない、人の本能はこれらを拒絶し続けるだろう”
拓也◆mOrYeBoQbw(初出2015.02.20)
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