文学コラム・「幸福な王子」(ワイルド)と「小僧の神様」(志賀直哉)の差
こんばんは拓也です!(・ω・)ノシ
今回は小説でも、似たテーマでも書き手によって大きな差が生まれる、というものを紹介したいと思います。タイトルにも有る様に「幸福な王子」と「小僧の神様」ですね。
このケースは「十五少年漂流記」と「蠅の王」なども良い典型例ではあるのですが、テーマが明確な前者2作品を例にしたいと思います~
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「幸福な王子」は現在青空文庫などでも読めるワイルド作の寓話、童話ですね。
町のシンボルでもあり宝石や貴重品で飾られた”幸福な王子”と呼ばれる像が苦労や不幸を背負った人々に、自分の宝石や金箔を届けるように、逗留していたツバメに頼む物語です。
最後に南に帰れなかったツバメは死に、みすぼらしくなった王子も鉛の心臓が二つに砕け、像は町の住人に溶鉱炉で溶かされてしまう、という結末。
一方「小僧の神様」は、神田の丁稚・仙吉が憧れていた鮨屋で鮨を頼みますが、金が足りず鮨を目の前に諦めてしまいます。それを貴族院のAが見かけます。
そして神田の店で仙吉を見かけたAは、仙吉に鮨を奢ります。しかし仙吉は鮨屋での出来事を見られていたとは気付かず、Aの事を神様では無いか、と思い、事有る毎にAの事を思い出すのです、という結末です。
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まず、共通点から述べますと、”持てるものが持たざる者に施す”をテーマにしています。言ってしまえば書き出しから中盤までは同じような流れです。大きく異なるのはやはり結末になってきますね。
「小僧の神様」はいわば施しがそのまま小僧に感謝される、という流れになっています。一応終盤にAも作者(志賀)も一定の疑問を呈してはいますが、小僧は満足するというハッピーエンドで終わっています。
これはある種、志賀直哉の自己満足的な要素であり、実際に見た丁稚に施したら、という私的な願望から昇華させずに、そのまま小説にしたものと言えるでしょう。
反面「幸福な王子」で描かれているのは死や崩壊、そして悪意の存在ですね。
ワイルドは低年齢向けの童話、寓話にしたものの、奉仕や施しに対する一定の疑念や問題点から目を逸らすことなく、普遍的なテーマとして”奉仕と人間の醜さ”まで昇華させていると言えると思います。
平素で解りやすい文章ながらも、テーマの深さと、魔法的な後味をちゃんと残しているのは「幸福な王子」の方だと言えるでしょう。
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ともあれ、志賀もまだ小説が出来て間もない日本で文体や技巧を研究し弟子も作っていったので、昇華のない稚拙さもある程度しょうがないかと思います。
まだ個人を描くのと、人間を描くのに大きな幅があった日本の文学は反面教師としてなかなか勉強になりますね。
では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ