聖都の落日 ~占いと預言のジオメトリー・補遺Ⅲ~
イェースースーは一度だけ地面に幾つかの単語を書いたが、
何人もそれを読む事は出来なかった――ヨハネの福音書
日が暮れて、もうすぐ、十四夜の月が出る。
俺は、聖都の辿った運命と俺の思いを、全て記してから事を起こそうと決心している。
俺の行為が――つまり今この文章を一字、一字書き進める事が――更なる不幸や宿命を聖都の地や、俺達の子孫にもたらすかも知れないと言う不安は、確かにある。
しかし、俺の話に耳を傾ける者は、彼を追って聖都を去ったか、あるいは冷たい土の下に葬られてしまっている。
俺は・・・・俺達は全て気付くのが遅すぎた、彼の言った事は何一つ比喩の無い、単純明快な真実だけだった。俺はこの聖都と俺達の子孫のために、月明かりの下で全てを贖い、全てに決着を付ける。
彼が、聖都と名付けられる事になるこの街に到来した時、俺達は遠巻きに彼を眺めているだけだった。
彼は頭からつま先まで黒衣に包まれていた。黒衣から覗く顔と手は、いかにも異邦人らしい濃い褐色の肌をしていて、漆黒にも見える目や髪は、太陽の光が差し込むと黄金色に、月光で鳶色へと色彩を変えていた。
彼はまず、俺達が見知らぬ、俺達の武具よりも更に鋭く輝く鉄器で畑を作り、黒衣の懐に忍ばせていた種を蒔き、農業を始めた。
遠巻きに見ていた俺達とは違い、物怖じしない子供たちが彼に話しかけ、その種を幾つか分けてもらって大人たちに見せびらかしていた。どの種もこの街で見かけないような種類のものだった。
その年は日照りと水不足で何処の小麦、野菜も不作にあえいでいたのだが、彼の畑の作物は大きく育ち豊作だった。
彼は困窮する農民達に実った作物も、作物の種子も、街の農家達に分け与えた。しかし彼はそれ以上に、作物と気候の周期、灌漑の技術、農具の技術を農家や俺達に教え、それが大きな最初の変化をもたらした。
最初の変化は素晴らしい物だった――と、俺は今でも思う。農民のみならず、商人や職人、貴族に奴隷、そして当然俺も、彼の話を聴くために彼を訪ねた。
日暮れになると彼は、日干しレンガとシュロの葉の屋根で組み上げられた粗末な庵の中央に腰を下ろしていた。そして他の者達が周囲を囲んで話を聞いたり質問するのが日課となった。彼は薄明かりの屋内でも、いつもの黒衣を羽織ったままだった。彼は俺達の街に伝わる神話や口伝、伝承を聴いては、それがどういう意味なのか、内容を紐解いて教えてくれた。
異国の神話も良く話してくれた。俺達が見たことも無い巨大な動物や、天まで届く大樹を見た話もしてくれた。
海に浮かぶ岩礁の上で歌い、男達を海に沈める甘美な魔女達の話に漁師達は震え上がり、槍一つで三つの軍を打ち倒した英雄の物語に、乙女達は心を時めかせた。
彼は農作業の中でも、俺達に暦と文字を教えてくれた。
俺達が自分自身の名前を書く為と、農作物の収量、品種、収穫時期の記録する為だった。
記録するためのパピルスは大都アレキサンドリアからもたらされ、足りなくなれば木簡に記録を付けていた。
ある時、彼の庵で対話中、一人の男がパピルスに何かを書きとめていた。
周囲のものがそれを見ると、そこにその日の彼の言葉が飾り文字で、仰々しく書き連ねてあったのだ。
そのパピルスに気付いた者達は、それを見て感嘆の声をあげ、彼にそれを見せて、もっと賞賛を貰うべきだ、と提案した。
パピルスを記した男は、それを彼に差し出したが、彼の反応は誰も予想していなかったものだった。
彼は初めて怒りを露わにし、パピルスを書いた男を激しく叱責した。
普段は黒衣に隠れていた、褐色の力強い腕を露わにし、パピルスを取り上げ、彼は言った、
「書物や文字は、対話の代替とは成り得ないのです。それどころか、私の言葉を文字にすると言う事は、大きな、余りにも大きな呪いとその伝染を生む事になるでしょう。一冊の書物に全ての事を書き込もうとする事は、貴方がたの神々のみならず、他の全ての神々を病に冒し、奇形化させ、息絶えたその死体から、更におぞましき神と病巣を生むのです。」
彼の強い言葉に俺達は押し黙った。
それは、その強い口調のみならず、普段は難しい事柄を解り易く話す彼が、俺達の誰一人も理解できない言葉を並べたからだった。
彼は、俺達全員の見る前でパピルスを乱暴に焼き捨てた。しかしそれは、”彼の目の前で”言葉を記録する事の抑止にしかならなかった。
彼が対話を終えた後で、何人かは彼の言葉を反芻し、記録人がそれを一番上等なパピルスに再現する作業が続けられた。
彼の熱心な信者達がそれを持ち歩き、少し遠くの町や村でその内容を語って聴かせていた。人々は俺達の街に集まり、そこはいつの間にか聖都と呼ばれるようになっていた。
小さかった庵もいつの間にか石造りの大聖堂へと姿を変えていた。
そして、彼にパピルスと伝道師の存在が知られてしまった。
いや、彼は、庵でパピルスを焼き捨てた直後から既に気付いていたのだろう、しかし、誰かがその時の言葉を理解してそれを止めてくれるのを待っていたのだと、今の俺は確信している。
パピルスや木簡は、彼の目からは常に隠され、直接彼がそれを目にして気付いた訳ではなかった。
信者同士のパピルスの解釈議論で、とうとう死者が出たのである。
議論が衝突したのは、それぞれ東と西から聖都に移住してきた人間だった。パピルスに記された彼の文言は非常に単純なものだったが、今はそれが何だったのか思い出せないし、さして重要な事とも思えない。
ただ言い争いの中で、片方が逆上し相手の命を奪った。下手人の方も、その日の日暮れに首を括って自身の罪を贖った。
彼にこの事実を隠し切れなかったのは、言うまでも無いだろう。
彼が聖都を去る日、俺の周囲は世界の全てが終わるような大気に包まれていた。
男も女も道に出て泣いていた。しかし誰も、彼を引き止める言葉は持ち合わせていなかった。
他の街や村から聖都に移住してきた信者達の中には、絶望の余り自ら命を絶つものも相次いだが、俺の心は絶望で全てが麻痺して、泣く者にもこの世を去る者に対する憐憫の念は浮かんでこなかった。
また、高所から石畳に肉塊が叩きつけられる音が街中に響く。俺は聖都をあちこち彷徨い歩き、石畳の上の血だまりや、まだ片付けられてない肉塊が幾つか視野に入ってきた。しかし俺の中には虚無と乾き――
ただただ、重苦しく、麻痺した心が、パピルスを焼き捨てた時の彼の言葉を何度も繰り返していた。
彼は、何人も自分の後を付いて来る事を許さなかった。
彼が来る以前から聖都に住むものや、あるいは高弟と自称するもの達は、少しずつ姿を消していった。
ある者は、拒まれるのを知りつつも彼の後を追い、ある者は全てを忘れ新しい生活をする為に。
その後、高弟を自称していた一人が、彼の名を騙りパピルスを街道で掲げていた所、何者かに石打にされて殺された、と言う噂も聞いた。
聖都に残り、実際に彼を見て彼と話した人間は、俺の様に徐々に年を取っていった。
そしてある日、彼に会った事が無い若い信者達が、彼がパピルスや木簡に残した言葉を雪花大理石に刻み、永遠に残そう、提案してきた。
俺は恐怖し叫んだ――”それは彼の意思じゃない、彼の言葉じゃない、周囲の者が書いただけの文字の羅列だ”――と
しかし今や、俺の意見は採用されることなく、雪花大理石のオベリスクの計画は粛々と進められている。
大理石に言葉を刻む準備の為に、全てのパピルスと木簡が一つの倉庫に集められている。
作業は聖なる満月の夜に開始される為、俺が事を起こす機会は十四夜、明るく、大きな月が出ている今が最後であり最良の時なのだ。
俺は命を掛けても、全てを燃やすだろう。
武装した護衛や監視の目は有るだろうが、俺がやらなければ消えぬ病巣が聖都のみならず世界を冒すだろう。
窓の外の雲が徐々に薄くなり、朧の十四夜の月が姿を現してくる。仮に俺が失敗しても、病巣が広がる前に同士が悲願を遂げる事をただただ願う。
俺の、おそらく最期になるであろう聖都の記憶と事実を、床石の下に封じて、全てを贖いに彼の行為を再現しに向かう。
拓也◆mOrYeBoQbw(初出2015.12.02)
自作の創作、コラム、エッセイに加えて、ご依頼のコラム、書評、記事等も作成いたします。ツイッターのDMなどからどうぞ!