映画『Barbie』と”女性性”そして”弱者”
⚠ネタバレあり
はじめに
「フェミニズム映画」「ポリコレ映画」など様々な噂を聞きつつ、自称フェミニスト(話すと長いです)でありDua Lipaが大好きな僕は映画館に足を運んだ。
まず、『2001年宇宙の旅』のオマージュとしてBarbieが出てきて、コメディ映画としての娯楽、赤ちゃんの人形を破壊することで家事無償労働否定としてのマルクス主義フェミニズムが垣間見えるスタートで、とても楽しませてもらった。フェミニズム的要素をシーンごとに拾っていったら楽しいだろうが、それはきっと他の人も行っているだろうと考え、今回はしない。
前提として、ここまで”コミカルに男性社会を否定”してくれたことに感謝し、2つの点から感想を述べたい。
Barbieの中の”女性性”
Barbieの映画の中で展開されていく「強い女性」、大統領であったり、医者であったり、Kenとの行為もBarbieが主体で決める。NoなものはNoであり、自分の身体は自分で、自分の職業は自分で決める。
そういった姿が映し出される中、Kenによって支配された世界を取り戻すために彼女たちが最初に使ったものは”ハニートラップ的行動”である。「胸を露出し困った女性を演じる」行為から始まった。これは、Barbieに対する否定ではない。この作品では所謂ラディカルフェミニズム的な”女性性からの解放”は行われず、結局男性優位社会で女性の意見を通すためには”女性性”が駆使されていた。僕はその事実に対する悲観的な視点と、”女性性”に対し、よくも悪くも可能性を考えた。悲観的な視点として、女性が男性に対し何かを実現するために相手の性的対象にならざるを得ない状況であること。可能性としては、”女性性”を備えていることで何かを変えられるという意味での可能性、そしてその能力の深さである。
僕自身、関係性によるが他人を”性的対象”の枠組みに入れてしまうことに罪の意識を持ってしまうし、何か特別な存在の人にしか向けたくないものであり、(それは意識の話であって行為の話ではない)だからこそ、このハニートラップ的状況に違和感を覚えたのかもしれない。勿論、僕はその”女性性”というものを決して無いものとして捉えていないし、存在していると把握しているが、ここまでパワフルなフェミニズム色の強い作品でも”女性性”が、男性と戦う手法としてケロっと出てきたことに驚いた。なので、そういった意味では、マルクス主義フェミニズムの色が強い作品なのかもしれない。ちなみに僕はラディカルフェミニズムに100%賛同しているわけではなく、”女性性”という無視できない存在からこそ、そこの解放が果たして本当に可能なのか、疑問を呈している側である。
Barbieの中の”弱者”
「だから僕はアメリカが嫌いなんだ!!」そう強く思う作品でもあった。弱者であることが悪のように描かれ、排斥されているからだ。ここでいう弱者とは、自分自身を自分で選択できない人、それを具体的にいうならば極端に言えば知的障がいを持つ人、程度にもよるが強くない人、個人主義に向いていない人である。これは、私は学んでいる分野に少し触れることであるが、アメリカ社会は”自由”を良しとし、背景として自分で信仰を選択するプロテスタント、バプテスト派が多いことからも示唆できる。
Kenが弱虫だっていいじゃないか。Barbieが諦めたっていいじゃないか。何故、個人が強くあることをそこまで美学として描くのか、僕には到底理解できない。何故「海の人」としてのKenはKenではないのか。「Barbieを好きなKen」はKenではないのか。それも勿論Kenであるし、個人と向き合っている時だけが自分の本質のわけがなかろう。
そもそも、本質など誰がわかるものか、人格などあってないようなものだ。パーソン論への否定にも繋がるが、胎児、人に権利を生み出すのは、「人との関係性」を持ってでないと存在し得ないし、もっと人との関わりへの価値を大事にしたいと僕は常々考えている。弱くあることに、選択ができないことに、罪を感じる必要はない。そういった点では、如何にもアメリカという映画で、僕の嫌いなところが詰め込まれていた。現代を生きる人間に対し、人に頼っていいし、ゲマインシャフトを大事にするムーブが来てもいいのではないか、など思うのであった。
まとめ
論点としてこの2点が浮かんだが、本当に楽しませてもらった。音楽もよかったし。そこまで映画を見てきていない僕はきっと気づけていないオマージュもあるであろうし、他の論点、視点も多くあり、魅力的な作品であることには間違いない。フェミニズムの議論にも段階があるが、今の日本ではあまりレベルの高い議論は予想されないため、僕が何故「僕」という主語でnoteを書いているか、全て繋がっていることを記して終わりたい。
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