18.アフリカ大陸を飛ぶ飛行機
私は、事務所で暇だった。
珍しい友人がやってきた。
「久しぶりね。外国だったの」と私は聞いた。
彼の仕事は定かではない。
おいしそうな話があればすぐどこにでも飛んで行く人で、格好良く言えば商社マンの社長だ。
「カメルーンに行ったんですが、参りましたよ」という。
バンギから隣国のカメルーンのドワラ(港町)行きのフライトに搭乗したが、飛び発ってから急きょヤウンデ(カメルーンの首都)行に変更された。
乗客はヤウンデで降ろされ陸路で4時間かかってドアラに戻ったという。
彼の説明によると、急きょ行き先が変更されたのは、乗客の一人が大金を払ってパイロットを買収したからだそうだ。
信じられないことであるが、友人が作り話をしているのではなさそうだ。
この話の輪の中にいた人たちは、面白いと笑ったが、自分が当事者であれば、面白いと笑ってはいれない話である。
アフリカでは、国内線の話題には事欠かない。
40年前のザイール(現コンゴ民主共和国)の国内線の旅を懐かしく思い出す。
あの頃は若かったし、好奇心いっぱいだったので何でも楽しかった。
チェックインはしたものの、本当に飛行機が今日飛びたつのか、飛び発つにしてもその飛行機に乗れるかどうかは分からない。
乗るためには運と努力と体力が必要だった。
私は、北の赤道州で仕事をしていた。
「ゲメナ行きの飛行機は何時に飛びのでしょうか」
「誰も知らない。神のみぞ知る」
と、空港の職員は両手を広げて肩をすくめる。
国営のエア・ザイールの国内線大型機は1機しかないらしい。
飛行場の奥の方に駐機している飛行機が、ゲメナ行きに違いないと感を働かせる。
飛行機の回りには人が動いているので準備中であろう。
同行の二人のシスターたちは「飛ぶのかなあ」と疑心暗鬼。
国内線は、座席指定がなく、オーバーブックキングになっているので、早く機内に駆け込み席を確保した者が乗れるのである。
周りが走り出すときは、私も同時にダッシュせねばならない。
出遅れると座席がない。
まさに椅子取りゲームである。
一人が4-5席は確保するので、走る時は先頭集団に入っていないと座席の確保は難しくなる。
私はシスター2名分と私で3座席確保を目指す。
裸眼視力が7.0あると言われるアフリカの人と、矯正視力1.2の私では見えているものに大きな差があるため、私は周りの現地の人々の動向を察知し、先頭集団で機内に走り込むことである。
「もうそろそろですかね」現地の人に探りを入れる。
「まだ、荷物を運び入れているからまだだねえ」
私には、飛行機の回りで人が動いているのは分かるが、荷物を運び入れているなどは全く見えない。
飛行機までは優に100m以上あるだろう。
20代後半の私は、走るのには自信があった。
周りの中年の太った男女よりは、私が優位だろう。
10代20代のカモシカの足を持つ若者にはとても太刀打ちできない筈だが。
それぞれの家族が誰を代表として走らせるかが問題である。
手ぶらで走ることはできない。
座席取をするときは、何らかの荷物を座席に置いて「ここは私の家族の座席です」と主張する必要がある。
私はそれぞれのシスターのカーディガン(機内が寒い時羽織る)を持つ。
私のショルダーバックが少々重たいのはハンディであるが全力疾走するのみである。
私は、遠くに見える飛行機に視線を置きながら、周りの気配に神経を配る。
数人の男性が走り出した。
「行きます」シスターにいうが早いか、私も走り出す。
飛行機までは遠く感じる。
若者たちが私を追い越してゆく。
太ったおばさんが私に並んだ。
抜かれまいとスピードアップだ。
タラップが前と後ろにある。
どちらにするか。
近いほうの後ろのタラップに向って突進する。
タラップを上る脚はガタガタと震えている。
座席は中央部を確保するのがよい。
乗り降りに便利だからと入口付近に座っていると、最後に政府高官が乗り込んできて引っ張り降ろされることがある。
そんな光景を目にしたことがある人たちは、賢明に中央部の座席を確保する。
しめしめ中央部の座席を3つ確保した。
噴き出す汗を拭きながら呼吸を整える。
セーターを置いているにも関わらず「空いてますか」と次々に人が聞く。
シスターたちはのんびりとやってきた。
「ミズコがいるので助かるわ」と笑顔だ。
座席のない人たちが右往左往している。
どんなに頑張ってももう座席はないのにと思っていると、キャビン・アテンダントが、座っている子どもたちを通路に引き出した。
何が始まるかと見ていると、その座席に大人を座らせている。
通路に立った子どもたちはどうなるのかと思っていると、小学生の女の子を私のところに連れてきて
「この子を抱いてシートベルトをしてください」
そういうことだったのか。
子どもたちは、細身の乗客のところに託された。
配られたというのが正しい。
凄いことだ。
オーバーブッキングもなんのそのである。
私は脚を開きそのすき間に少女が座り、滑り落ちそうな少女を抱いてシートベルトを締める。
ベルトはまだ余裕である。
離陸をすると機体の先端が上がるので少女の体重がどっと私にかかってくる「キャー重たい」と笑い声が聞こえてくる。
水平飛行になり、シートベルト着用のサインが消えると、子どもたちは通路を走り回る。
機体が揺れると子どもたちは「キャーキャー」言いながら楽しんでいる。
機内はイベント会場のような雰囲気である。
シートベルト着用のアナウンスが入ると、子どもたちは出発時の客のところに戻ってくる。
少女を抱いて無事に着陸。
着陸すると拍手喝采が起きた。
私に抱かれていた少女は、シートベルトを外すと笑顔で駆け出して行った。
2015年8月、突然銃声がして、その銃声が鳴りやまなかった。
私たちは、シスターたちが運営している研修センターに宿泊していた。
3日目に国連軍の兵士が防弾車で私たちを迎えにきた。
3日ぶりに街に出た。
昼間なのに人気が消えゴーストタウン化している。
交差点には装甲車が待機し、国連軍の車が猛スピードで通り過ぎてゆく。
銃声は続いている。
私たちは、国連軍のキャンプに着いた。
狭いキャンプ内には、外国人が右往左往していた。
宿泊施設はなく、仮設の事務所内で段ボールを敷いて寝た。
男性も女性も老いも若きも優遇されることはなく、いち早く空いている床に隙間を見つけて段ボールを敷いた。
インスタントスープが積んであるが、肝心のお湯がない。
銃声は続いている。
時々迫撃砲が炸裂する。
国連兵は「ここは安全です。ご安心ください」と叫ぶ。
でも眠られない、食べ物もないでは、何日持つか老体のほうが心配だ。
翌朝、私たちの名前が呼ばれた。
国連機で隣国カメルーンのドアラ市に発つと説明を受けた。
嬉しかった。
私たちは、防弾車で飛行場へ移動した。
飛行場に着くと胴体に「UN」と大きく書かれた国連機に案内された。
機体に近づくと機体は色あせいかにも使い古されたポンコツの飛行機だと思った。
機体にはネジが錆びてできた茶色いすじが模様になっている。
機内に入るとロシア語の表示で座席のシートはすり切れている個所もあり、リクライニングも故障しているが、10人ほどの乗客で座席に余裕があるので比較的きれいな座席を見つけて着席した。
エンジンが回り出すと振動するような轟音に包まれ間もなく離陸した。
私は職員を残して私たちだけがこの内戦地を脱出する後ろめたさを感じた。
十数年前も脱出機に乗ってパリに行った。
その時、「マダムは帰る国があるからいいなあ。僕たちは流れ弾に当たって死ぬだけだ」職員が言った。
私は再びこの言葉を思い出した。
眼下にはサバンナが広がっていた。
このサバンナの下で逃げまどっている人々がいるかもしれないと辛い気持ちで眺めた。
1時間ほどすると高度を下げ始めたようで機体の揺れが激しくなり座っておられず、座席の肘掛けを上げて横になった。
機体はガタガタ解体しそうな音を立てて上下左右に激しく揺れる。
客室乗務員はいないので「ご安心ください」と乗客を落ち着かせるような放送もない。
窓の外を覗くとサバンナが眼下に見える。
翼が上下に大きく揺れ折れないかと不安が増す。
「内戦地から危険を避けて脱出しているのに、ここで墜落死するのだろうか」恐怖にさいなまれる。
「国連軍のキャンプに残っていたほうが安全だった」と後悔した。
「内戦はもうすぐ鎮火するから帰国する必要はないよ」と職員たちは言ってくれたのにと彼らの顔が浮かんだ。
「神様、助けてください」と唱え続けた。
恐怖の時間はとても長く感じた。
もう何も考えられなくなり座席から転倒しないように必死で椅子の端をつかんでいるだけだった。
ドーンと全身に衝撃を受けた。
窓の外を覗くと駐機している飛行機が見えた。
飛行場だった。
今日もアフリカの空に思い出を乗せて飛行機が飛ぶ。