「顔が見えない」がdefaultの世界
ここ最近の話ではなく、もう長い時間世の中は表記の世界を抵抗なく受け入れ結果「生活スタイル」が変化してしまったことに多くの人が無頓着だ。
営業であるならインスタ等閲覧数は評価に繋がり、経営にも反映されよう。けれども、一般人にとって閲覧数が伸びることがそれほど大切なのか。或いは、Twitterの見知らぬ人の反応に一喜一憂する必要があるのか。そこに承認欲求を満たすものがあるのか疑問だ。
週末レストランで中学生と高校生だろう娘さんを連れた母親の三人がお隣だった。注文が終わると一切言葉なく無言でスマートフォンの世界に三人没入。そのスマートフォンは今この時間に見なくてはいけないレベルではなさそうな気配、視界の端にかかる家族の姿が寒かった。
家族であってもパートナーであっても、どんなに言葉を交わしても尽くしても相手のことを100%理解する日は来ない。だから、日々他愛ないことでも話をする。そして、通話や文字では見えない表情を確認する。
そうした丁寧な人間関係構築が家族やパートナーを「少しずつ」結び付けていくのではないかと考えて、私たちは平日すれ違い生活を埋める意味も加えて週のどこかで必ず共通話題提供となる映画を観、ゆっくりと食事をすることがお決まり事になった。
都合がいい時間に反応する世界と、相手があって相手の為に自分を合わせる世界は異なる。
この「note」然りネット環境の恩恵に与り現実世界の限界も超えられことはうれしい。けれども、これは利用するものであり飲み込まれては問題が多々生じる。顔が見える世界は確かに煩わしさも生むが、それを超えるものや救いがある。例えば悩みごとがある時、最大公約数的な見知らぬ人からの助言(ネット)よりも私を日頃から知っている友人を頼りたい。
薄氷の上を歩くような、スマートフォン依存世界。
せめて、今が過渡期でありますように。
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