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一週間かけて鳥取を訪ねる:⑪妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)
大山周辺を幾つか回ったこともあって夕刻迫るギリギリの時間で妻木晩田遺跡に滑り込む。
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古代遺跡と言われて浮かぶのは、高松塚古墳(奈良県明日香村)、登呂遺跡(静岡県静岡市)、加曽利貝塚(千葉県千葉市)、三内丸山遺跡(青森県青森市)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)。しかし、私はこれらの遺跡にはどれ一つ訪れたことがない為に今回比較を語れない。只、改めて調べる限り背景時代は異なるが縄文時代の三内丸山遺跡と妻木晩田遺跡は似ているよう。
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鳥取県観光資源の調査に弥生時代遺跡が入っていること自体が驚きだった。此処を観光として訪れるか否かで見た場合、他の観光地と隣接していない場所に位置していて厳しい面はある。
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平成7年から平成10年、この地に大規模リゾート「大山スイス村」開発計画が立ち上がり教育委員会主導で発掘調査が行われた。発見されたのは、弥生時代中期~古墳時代前期にかけての遺物。面積約170haの広大な場所に竪穴住居跡395棟、掘立柱建物跡502棟、弥生墳丘墓24基等が検出されている。
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知識では竪穴住居は習得済みであっても、いざ目の前に存在すると既知の竪穴住居が別物に見えるほど肉付けされた再現住居は複製と知っていても息づいて迫ってきた。
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夏季には実際この竪穴住居に宿泊出来るそう。もし小学生に戻られるのであれば私も体験したかった。
遺跡としての保存、及び、現在も続く研究・発掘とこうした観光的要素をどう妥協して結びつけるのかは悩ましいところに違いない。
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夕刻が迫っていたことと雲の多さで写真は鮮明さに欠けるが、今こうして振り返っても教科書数ページでサラリと過ぎた時代がこんなにも興味深く、駈け足訪問ではあったが楽しい時間になった。
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170haという広大さを最後まで掴みきれなかった。
それでも、幸いに人工的な近代建築物が視界にほぼ入らないお陰で弥生時代への想像は膨らんだ。
標高90-120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の地を住居地と択びながらも此処を去って行った古代人。彼らはその後どこへと移住したのだろう。
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丘の上にポツンと復元された住居(上の写真)を見た時に、既にマガジン「Dublin1916-2016」に記録した◇Newgrange Ⅰ『ブルー・ナ・ボーニャ』の風景を唐突に思い出した。