一週間かけて鳥取を訪ねる:③滞在時間が短く思いを残した鳥取城・鳥取城は「姫路城の弟城」
東京から移動し一泊明け、丸一日過ごすことになる鳥取滞在二日目。
この日は、鳥取城の他に4か所回らなくてはならず鳥取城で気の赴くまま過ごすことは出来なかった。
西坂下御門は1867年(慶応3)に創建されたが、1975年(昭和50)の大風で倒壊破損し現在の門が復元されている。復元からさほど時間は経過していないが、在りし日の正門をくぐる人々とは違った職種・身分が違う人々がこの門をくぐった様子を想像するには十分な存在だった。
この門を抜けるとニノ丸の石垣群が現れる。
西坂下御門跡を抜けて向かった先の二の丸までが私が動いた場所、正確にはパートナーと頂上の本丸を目指したが一応登山靴は履いてはいても短時間で往復する体力が無く残念ながら私だけ三合目で引き返した。
西坂下御門を抜けると明らかに観光者用の整備された広い道路が用意されている。春には桜の名所で人々が集う様子が浮かぶほど城跡は公園の様相。
しかし、傍らに登山口と明記した箇所があり、そこから先は同じ公園内でも様相は一変し標高263mと低いながら登山姿の人らが細い急な道を登って行く。足元だけ準備した中途半端な私の姿はそうした彼らに申し訳なかった。
鳥取城の前に訪れた沖縄に在る勝連城と中城(なかぐすく)城の城とは全く趣が異なっていた。
それでも再現度が低い城を復元されるよりも城跡だからこそ遠い昔に思いを馳せることが出来る自由度が私は好きだ。
城に関しては素人の上、城めぐりの趣味も持ち合わせていない私だが、鳥取城の自然を生かした織り成すような配置は見ていて飽きなかった。
武家諸法度による幕府への配慮の為城内に高層な建造物は造られなかったが、藩主御殿がある二ノ丸には山陰地方初となる「層塔型」の三階櫓が建てられ山頂の天守焼失後は代用天守として長く藩の象徴となり城下の人々の誇りでもあったそう。
全体として山城の意味がよく理解出来た眺めでもあった。
本丸からの写真はパートナーが撮った一枚。遠く湖山池が見えたそうで標高からは意外な眺望である。次回があるなら、今度は時間がかかっても本丸まで行きたい。
江戸時代には国内12番目の規模を誇った鳥取藩32万石の居城との事前知識もないままに訪れたが、何も知らくとも城跡は十分に語ってくれた。その上、後で歴史を調べるよう宿題まで提供してくれた。
鳥取城の歴史が気になり調べた。以下は「鳥取城跡(鳥取市教育委員会事務局文化財課)小冊子」を参考にまとめたもの。
【戦国時代】
鳥取城は16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生。当初は因幡山名氏の守護所の出城だったが、1573年(天正1)山名豊国は本拠地を天神山城(湖山池東岸)より移転する。以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となる。毛利氏の傘下となった後は天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられた。
城の形態は戦闘時は山城を利用し、通常の居住空間は山麓に用意された。
敵が登りやすい尾根には尾根を切り盛りして平らな敷地を造り、その周囲に切岸と呼ぶ急な斜面を造り防御としたらしい。地形を利用した城の姿であって石垣や天守はなかった。
【安土桃山時代】
秀吉による兵糧攻めのあと新城主となったのは、秀吉の側近として活躍した宮部継潤。彼は鳥取城に石垣や天守を築き(近世城郭)、城の姿を一新させた。息子の長房は1600年(慶長5)の関ケ原合戦で西軍に与した為、鳥取城は東軍の鹿野城主亀井茲矩や竹田城主赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け徹底抗戦の末に開城。
【江戸時代】
関ケ原合戦後には池田長吉が城主となる(長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟)。鳥取城は姫路城と共に西国の豊臣系大名の抑えを担っていた。
しかし、1615年(元和1)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡により池田家は転機を迎える。1617年(元和3)姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とほぼ同じ鳥取藩が誕生した。
鳥取城は宮部時代から5、6万石規模の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓を32万石の政庁として整備した。1632年(寛永9)岡山城主池田忠雄の死去に伴い3歳の光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟光政との国替を命じた。以後、鳥取城は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続した。
【近代】
明治維新後1873年(明治6)廃城令では鳥取城は軍事的な必要性が認められ建物の多くが陸軍の施設として再利用された。しかし、国内の政治が安定に伴い陸軍の撤退が決定し、1879年(明治12)不要となった建物のほぼ全てが撤去された。
城跡はその後、三ノ丸や籾蔵跡が学校用地として転用された他、扇御殿跡には宮廷建築の第一人者である片山東熊の設計による仁風閣(国重要文化財)が建てられた。
大正時代に入ると市民から要望を受けた旧藩主鳥取池田家によって久松(きゅうしょう)公園が整備された。その設計は明治神宮外苑の設計者折下吉延。
【現在~未来】
大正期以降久松公園として親しまれた鳥取城跡は1943年(昭和18)の鳥取大地震(震度6、死者1210名)によって城跡も大きな被害を受けた。
翌年、旧藩主鳥取池田家は震災の復興に立ち向かう市民を勇気づけるため鳥取城跡を鳥取市に寄贈。
城跡保存の意志を引き継いだ市は、国史跡指定を契機として石垣の修理を中心に城跡の保全と活用に取り組んでいる。
2006年(平成18)には建物復元を含めた長期的な整備計画を策定し、城の正面玄関にあたる大手登城路の復元整備に取り組んでいる。
*現在の城跡景観を決定づける近世城郭部分については、特に城の骨格を明瞭化するため、擬宝珠橋(大手橋)、中ノ御門(大手門)、太鼓御門の建物復元を含めた大手登城路の全体的な復元整備が進められている。(尚、大手登城路は、近世鳥取城の政庁であったニノ丸、三ノ丸へ至るルートで象徴的空間であった。しかし、近頃まで三ノ丸跡に立地する県立高校の通用道となった為その本質的価値を著しく損なっていた。)