言葉の息継ぎ ~読点の打ち癖~
何故か仕事でもプライベートにおいても自身の文章ではないものをチェック、或いは校正、校閲することが多少多い気がする。自身は私に頼んでも良いの?と不安ながらも人助けとして受けざるを得ない。
そうした中で起こることが「読点」の位置にとても個人の特性が出ること。それをどこまで校正範囲に入れるべきかを悩むことがある。
日本語(母国語)であるなら高々読点・句点ではないかと捉えていても、それは他人の文章を見る時は様相が変わる。
中学1年生になったばかりの国語の授業で「読点を打つ時に平仮名の一文字を言いながら打つとしたら何を入れる?」と先生は問われた。
当時、関西に転校したばかりの私は悩まず「ね」と考えた。挙手した男子生徒は「な」と答える。クラスの女子生徒らもその答えに自然に頷いている。私は心の中で「ホント、それってある。」と感心した。
つまり、私たちは文章の書き方は習ってきている。読点の打ち方も知っている。だが、それでも「人によって」その打ち方は心情の鏡のように違う。
レイモンド・カーヴァー「ひとつの短編小説を書いて、それをじっくり読み直し、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読み直し、前と同じ場所にコンマを置くとき、その短編小説が完成したことを私は知るのだ。」
この意味がとても理解できる。
句読点の位置は、句点は意見は分かれないが読点の位置については明確な決まりはない。だが、その位置は相手に意味を伝える上ではとても重要だ。
文章も呼吸をしている。
大きな声を出したい、つまり強調したい文節が来る前は一呼吸置くように読点が入るだろう。また、一気に説得畳みかけたいときに読点だらけの長くくどい文章では相手に話の核を分からせることは厳しい。
「無意識」に打つ読点だからこそ、癖が出るのだろう。
一度打った読点が決して正しい場所に収まっている訳ではない。