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【書評】北村匡平著 『遊びと利他』

【書評】筆者 : A.M       2025年2月4日


1. はじめに

 文章を書くとき、私は大海を目の前にした航海士のような気持ちにおそわれる。つまり、書こうと思えばなんでも書けてしまうという、一種の無限性を前にして思わずたじろいでしまうのだ。しかし、今回の状況はむしろ逆である。どんな容れ物に入れられるのかはあらかじめ規定されており、<書評>という名を付せられている。私にとっては非常にありがたい状況のはずである。が、今の私は右も左も分からず、不安な状態にある。これは実に、<書評>という枠組みがあるがゆえに、である。
 これは私のはじめての投稿文になるわけだが、果たして今から書く内容が<書評>たり得ているのか、甚だあやしい。が、ともかくも漕ぎ出さなければいけない。不可視のなかで行動することは無意味を意味しているわけではないのだから。そのような心持ちで筆を取ることとする。

2. 本書について

 最近、「利他」という言葉をよく耳にするようになった。もっとも、「利他」は周知の通り、まったく新しい概念というわけではない。古くから存在し、生物学、宗教学、経済学、哲学等のさまざまな領域でこれまで論じられてきた。しかし、近年再び利他論が注目を集めているようである。その例として、東京工業大学(現:東京科学大学)を拠点にした未来の人類研究センターによる 利他プロジェクト」があり、伊藤亜紗らによって複数の本がこれまで刊行されている。著者である北村匡平氏はそのプロジェクトに携わっている一人である。氏は、これまでの一連の利他論を引き受けつつ、これまでのものとは性質を異にした論を構想する。
 では、本書の利他論はどのような点で違うのだろうか?それは、一つには筆者の専門である社会学・メディア研究の視点から利他を考えている点であり、もう一つには「人間以外のアクター(行為する存在)への着目とモノの媒介性による利他の分析」を行なっている点である(41頁)。具体的には、利他を明確に定義するのではなく、 具体的な遊びの空間やモノに即して、いかなる条件や環境で、利他が発動するのかを子どもの遊びから経験的に観察すること」が本書の主眼に置かれている(35-36頁)。一見すると、遊びの空間に注目するという本書の方法は、極めてミクロな領域に閉じているように思えるかもしれない。しかし、本書で明らかになるのは、そのような遊びの空間が「社会が求める思想や価値を具現化する空間である」ことなのであり、その意味で本書は、現代の社会批判というマクロな観点をも射程に含み込んでいるのである(64頁)。本書は以下のように展開されていく。

まえがき
序章 21世紀の遊び場
第1章 利他論—なぜ利他が議論されているのか
第2章 公園論—安全な遊び場
第3章 遊びを工学する—第二さみどり幼稚園
第4章 遊びを創り出す—羽根木プレーパーク
第5章 森で遊びを生み出す—森と畑のようちえん いろは
第6章 遊学論—空間を組み替える
第7章 学びと娯楽の環境
終章 利他的な場を創る
あとがき
 
 本書の特徴の一つは、単に理論的なレベルで論を展開させるのではなく、3章から5章に見られるように、さまざまなフィールドワークを実施している点である。どのような遊具が置かれているのか、そこで子どもたちはどのように遊んでいるのか、それを大人はどう捉えているのか等を組み込んだ厚みのある、極めてアクチュアルな考察がそこでは展開されている。北村氏が、「利他」の視点から 「空間(スペース)—遊具(モノ)—人間(ヒューマン)の関わり」を考えるにあたり、そのような視点は欠かせないものだったのだろう(90頁)。
 さて、本書の内容をある一つの観点から整合的にまとめるとするならば、そこで持ち出されるのは必ずしも 利他」ではない。もちろん、「利他」は本書の重要なキーワードである—本の題名に付せられているのだから—。しかし、私からすれば、本書の重要な点はむしろ、北村氏がモノへ向ける視線にある。氏にとってモノへの視線とは、「利他」を考える際の前提条件なのであり、それゆえに一層重要なのである。
 私たちの生活の中でモノはどんなふうに見えているだろうか?本、スマートフォン、ドア、カラス、道路の木々 ・・・。私たちは、多くの場合、モノを中心的に考えたりはせず、どこか副次的な位置に無意識に置いているだろう。ましてや、モノを人間と同じように扱ったりなどはしない。しかし、モノは私たちが思う以上に、多くの影響—インパクト—をさまざまなレベルで日々もたらしているのである。もっと言えば、私たちがモノを扱っているのか、モノが私たちを扱っているのか、それを厳密に答えることは実は非常に難しいのである。そのようなモノに対して、北村氏は非常に細やかな視線を向け、かつ重視するがゆえに、「いかなる条件や環境で」と問うのである。
氏がモノを重視しているのは、本書においてラトゥールやギブソンの諸理論に依拠していることからも明らかであろう。ラトゥールの「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)は、近代の人間中心主義からの脱却を前提にして「社会」を捉え直す理論である。つまり、ANTでは単に人びとの集まりが「社会」を形成しているのではなく、非人間(生物、無生物、人工物、技術等のあらゆるモノ)を含む異種多様なアクターの連関によって「社会的なもの」が作られていると考えるのである。また、ギブソンによって提唱された「アフォーダンス」は、簡単に言えば、モノがある特定の人間の行動を触発することを指している。例えば、階段を登る時、そこに手すりがあれば、手すりは私たちに握るという行為をアフォードする。モノは、その意味で、何らかの情報を発しているメディア(媒介物)なのであり、そ
れによって私たちの行動は、意識的/無意識的に左右されているのである。このようなモノの理解を踏まえ、北村氏は最終的に権力への警戒へと結びつける。氏は東浩紀が「規律訓練型権力」から「環境管理権力」へと現代的な権力の形式が移行したと論じることに注目する。これは、「自発的な意志にもとづく行動と思わせつつ、物理的な空間の布置やモノの形態が、身体に直接的に働きかけることによって社会を成り立たせようとする新たな権力の形式」な
のである(262頁、強調筆者)。こうしたことを考えれば、北村氏が今回採用する方法論—人間以外のアクター(行為する存在)への着目とモノの媒介性による利他の分析—の重要性が浮き彫りになってくるだろう。
 以上のような本書のモノをめぐる態度を構造主義的な視点とするのはあまりに粗雑であるかもしれない。しかし、本書はモノ (環境)が人にもたらす影響を基盤におきながら現代社会を見つめている点、それをしかも遊具というきわめて具体的なモノを起点にしてアクチュアルに描き出している点で、非常に示唆に富んだ本であり、現在の私たちが含み込まれている社会を見つめ直す際の重要な回路を提示していると言えよう。
 本書は非常に読みやすいだけでなく、幅広い視点から、現代社会を考えるにあたってのさまざまな議論を促してくれる非常に刺激的な本である。ぜひ一度、手に取って読んでみてはいかがだろうか。

3. 書誌情報

北村匡平 『遊びと利他』 集英社, 2024年11月発行, 333頁, 本体価格1150円+税
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents_amp.html?isbn=978-4-08-721339-3

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