見出し画像

【書評】『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』

【書評】筆者 : 菅隆善 2024年11月13日


著者について

 著者の浅田彰氏は前著『構造と力』によって一躍有名になった、いわゆる80年代の新しい人文社会科学の潮流「ニューアカ」を代表する思想家・評論家です。その文体はポップで軽やか、当時の若者たちの感性にあっていたようですが、本の内容自体はドゥルーズ=ガタリなどの影響を強く受けた現代思想系であり、難解であると思います。なぜこれほど難解な本が商業的にヒットしたのか、少し不思議ですらあります。しかし難解と言っても論旨は実に明晰です。多方向的な広がりを持つ現代思想をこのように上手く纏めて、自分の言葉で語ることができる人はそうそういないと感じさせられます。

〈スキゾ・キッズ〉への讃歌として

 さてこの『逃走論』に通底するモチーフであり魅力は、一言でいえば〈スキゾ・キッズ〉への讃歌だと思います。この〈スキゾ〉という言葉、対立する〈パラノ〉とともに「パラノからスキゾへ」というキャッチーなフレーズで当時の流行語になったそうです。ではこれらの言葉の意味は一体何なのか、著者の言葉を借りれば

スキゾ型ってのは分裂型の略で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのをいい、パラノ型ってのは偏執型の略で、過去のすべてを積分=統合化して背に負ってるようなのをいう。と言っても何だかはっきりしないけど、ギャンブル志向とためこみ志向、逃げることと住むこと、なんていう対比で考えると、少しはイメージが湧くんじゃないかと思う。

とのことです。「微分=差異化」などというワードがいかにも現代思想の雰囲気を醸し出していますが、これに惑わされず身近な対比で考えてみましょう。勉強も仕事も真面目でせっせと何かを溜め込むヤツ=〈パラノ〉、自由人で要領が良くてフッ軽でどことなく気のいいヤツ=〈スキゾ〉くらいでどうでしょうか。〈パラノ〉的閉鎖から、〈スキゾ〉的自由、解放へ。こういうノリがなんとなく80年代にウケたことは、想像できるような気がします。

大体、こどもってのは最初はみんなスキゾ・キッズなんですよね。すぐに気が散る、よそ見する、より道する。ところが、近代資本主義社会ってのはあくなき蓄積をめざすパラノ・ドライヴによってはじめて動いてるわけだから、こどもたちを強引にそこへひきずりこんでいかなきゃならない。で、家族・学校・社会という回路を通じて、こどもたちをパラノ化していくわけ。

 著者によれば私たちはもともと誰しも子供の頃は〈スキゾ・キッズ〉だったようです。しかし「近代資本主義」の勉強!仕事!金儲け!という叱咤激励にまんまと乗せられて、いつのまにか〈スキゾ・キッズ〉的感覚を喪失していく。そんな状況を目の当たりにして、著者は「スキゾ・キッズに帰れ」のメッセージを発するわけです。この本の最初の文章『逃走する文明』の冒頭にある

とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。

という言葉は社会生活の中ですっかり〈パラノ〉になってしまった全てのオトナ達に向けられているのだと思います。そしてこのメッセージは令和の世でもきっと通用するはず。私達、多忙な毎日の中でついつい〈パラノ〉化してしまっていませんか?逃げること、寄り道することの愉しさや奔放さを忘れていませんか?コロナ禍のステイホームを経て、前よりもっと〈住むヒト〉(『逃走する文明』より)になってしまった私たち。しかし心まで〈住むヒト〉になっていてはいけません。もっと自由に、逃げろや逃げろ!その言葉は今も変わらない輝きを放っていると思います。

現代思想の良きガイドブックとして

 『逃走論』の魅力はこの〈スキゾ・キッズ〉への讃歌だけではありません。そもそもこの本は断片集のような本で、著者がさまざまな雑誌に掲載した文章や、他の評論家との対談などを、比較的ゆるい構成でまとめたものになっています。大きな章立てとしては、最初に〈スキゾ〉関連のものがあり、今村仁司氏との対談を挟んで次がマルクス関連、そして柄谷行人氏らとの「共同討議」の後、現代思想系のブックガイド、書評といった感じです。
 マルクスのあたりは特に難解で正直理解しきれなかったところもありました。しかしその後の『ツマミ食い読書術』『知の最前線への旅』はどちらもとても面白く、現代思想に関する非常に良質なガイドとして読むことができると思います。

 『ツマミ食い読書術』は特に哲学・思想書を読む際の読書術について書かれたものですが、やはりここも〈スキゾ・キッズ〉流。

 だけど、それ、あくまでもツマミ食いでいいんだよね。「じっくりと腰をおちつけて」なんていう必要はない、通りすがりで十分だ、ただし毒がないか匂いを調べるなんていう小心なマネなんかせず、ガブッと一口かじってみること。で、これはイケルと思ったら、気軽にチャート化してカードにしちゃうこと。

こんな自由な読み方でハイデガーもマルクスも読みこなし、それでこの『逃走論』や『構造の力』を書いてしまうわけだから、いかに著者が天才であるかというのが分かります。もちろん、そんな天才ではない私たちの読書においても参考になるヒントがたくさん詰まっている文章なので、一読の価値ありです。短いし、すぐに読むことができます。気軽にチャート化、できるかは分かりませんが…。

 また『知の最前線への旅』、これも必ず読むべきです。構造主義からポスト構造主義への流れが、ブックガイドという形式の中でコンパクトに纏められており、まさに著者の本領発揮といったところだと思います。

ドゥルーズ=ガタリ入門として

 最後に私が最もこの本の中で感動した、今村仁司氏との対談『ドゥルーズ=ガタリを読む』について少し述べておきます。

 これは著者と、社会哲学や現代思想関連の本を多く出している今村仁司氏による対談です。テーマはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズとその思想的パートナーとも言える精神分析家のフェリックス・ガタリらによる共著、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』についてです。

 ドゥルーズ=ガタリの思想はどことなく魅力的ですが、難解極まりなく、理解することがなかなかできませんでした。しかしこの二人の対談を読むことによってはじめて「わかった!」という気持ちになれました。

 対談を通じてリゾーム、機械、器官なき身体などのドゥルーズ=ガタリ用語が明晰に解説され、思想が体系化され、しかもその思想の限界点まで指摘しています。これは素晴らしいドゥルーズ=ガタリ入門です。

 彼らの思想について私が長く誤解していたところも、はっきりと正されました。それは、ドゥルーズ=ガタリのいわゆるエディプス的家族批判というものは、精神分析学におけるその概念への偏重性への批判ではないという点です。詳しく説明することは難しいですが、これには衝撃を受けました。

 またドゥルーズ=ガタリの思想を展開させていき、欲望を〈水路づけ〉された流れから、より〈スキゾ〉な、多種多様な流れへと移行させていくことが近代資本主義の超克への一つの方法として示されているのも、興味深く読むことができます。

 インターネットの登場で、まさにドゥルーズ=ガタリの概念で言えば〈リゾーム〉(根茎と訳される。中心がなく、絶えず外部と接続し、変化しうごめくような多様体)的になっていく世界の在り方を、私たちはどう受け止めるべきか。またこの世界を、これからどうしていけば良いのか。そのヒントをこの本を通じてドゥルーズ=ガタリに触れることで見出すことができるかもしれません。

さいごに

 さて、このようにたくさんの魅力に溢れた『逃走論』ですが、最近『構造と力』もついに文庫化され令和の第二次浅田ブームが到来するのかもしれません。ぜひ一度、手に取ってみてはいかがでしょうか。

書評された本

筑摩書房 1984年 
浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480021076/

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集