ミュージカル『アナスタシア』感想~グレブという男について~|
ミュージカル『アナスタシア』を観ました。
諸事情で手持ちをたくさん手放したし、振り返ると東京公演の観劇は全然集中できていなかったんだろうなという感じで解像度が低いのですが、先日梅芸で観たときにわーっと解釈が進んだので残しておこうと思います。
W・トリプルキャストに関してはディミトリは相葉さん、グレブは万里生さんしか観られておりません…。
キャストごとに解釈が違って、それ全部見てやっとキャラクターの芯を捉えられると思うのですが、たぶん今からの感想は偏ったものになると思います。
グレブという男について
梅芸で観て気づいたことがあり、それがアフタートークで固まった考えがあるのでそれについて書きます。
グレブというキャラクターは「父の息子」というテーマが大きくあって。
脚本をなぞった事実だけ抜き出すと「グレブの父はボリシェヴィキに所属し、皇帝一家を革命で殺害した。父はその後自分を恥じて自害した」ということ。
アフトでアナウンサーさんが「父はアナスタシアをわざと見逃して、そのことを恥じて自害した」という解釈の話をしていて、そんな解釈をすることもあるんか!ってびっくりしたのだけれど。
それに対する万里生さんが、あくまで自分のグレブに対して演出家サラさんがつけた演出、お客さん個人個人の解釈にゆだねていいと前置きしたうえで、「父は皇帝一家を殺害をやりきったが、それを恥じて自害した。グレブは「父の自害」にトラウマを抱えた」と答えていて。
グレブのトラウマポイントって「皇帝一家を射殺した後の静寂」と「父の自害」の2つにあるんだなって。
なんだか私今までぼんやり観ていたなって反省したのが、グレブは「父の果たせなかったことを果たすためにアナスタシアを追っている」と思っていたこと。
違うよね。違ったよね。「父の自害」にトラウマを抱えているなら、「父の息子」にあれだけこだわっているならそういうことじゃないよね。
「父は恥ずべき人間ではないことの証明」のためにアナスタシアを暗殺しなければいけないんだよね。
ネヴァ川での語りを考えると無抵抗の皇帝一家を射殺したことに対する罪悪感というか、ショックは抱えていると思うんですよねグレブは。
ポリシェヴィキに所属しているグレブ一家にとっては未来のために必要な、正しいことだった。革命のために動く父はきっとグレブの中では誇れる存在だった。でも父は恥じてしまった。自害してしまった。
だからどれだけショックなことでも、父は決して恥ずかしい人間ではないと証明しなければいけなかった。父を肯定するためにも、自分の所属・行動は正しいことだと思うためにも。
こう考えるとすごく悲しくなってしまった。どれだけグレブが行動しても、死した父には届かないのに。
父が正しい人であるためにポリシェヴィキに忠実でいるのに、結局アーニャに恋してしまったことでそれを達成できなくなってしまったグレブが私は哀しい。
警視副総監としての忠告しながら、ただのグレブとしての懇願とも感じるアーニャへの語りかけをする姿は、あまりにも複雑なこの境遇を考えると苦しい気持ちになった。
(だから最後のstill、アーニャが「背後に私の家族が見えるでしょ」「私を父や母の元へ連れて行って」とグレブに叫ぶのはあまりにも…えぐい……アーニャはグレブの境遇を語られて知っているはずなのに………)
万里生さんがグレブのことを「戦争と革命の被害者」と言い切ったことに少しびっくりしたのだけれど、こうして整理すると、時代と社会と思想に陶酔しきれないからこそのグレブの苦しみがあるのだなと思えてきて、どうかこれから先自分の信ずるものがグレブにできるといいなと願うようになりました。
ところでロマノフ家のアーニャ(アナスタシア)とアナキストの父を持つディミトリが最終的にくっつくの、どちらもポリシェヴィキと対立するものがルーツなんですね。だからおとぎ話としてポリシェヴィキは処理して現代への架け橋とするんだなぁ。
終わりに
ここまで自分の解釈を語ったわけだけど、正直「父が革命を恥じて自害したという不名誉を払拭し、父の思想を受け継いではいないと証明して、ポリシェヴィキでの立場を確立したい」という思考でアナスタシアを暗殺するという解釈も自分の中で捨てきれはしない。
(でもこう考えると、控室のラスト「私は父の息子ではなかったということだ」じゃなく、「私は父の息子であったということだ」じゃないとおかしいか?)
ただこういう解釈の方が自分の中でグレブを好きになれるな、アナスタシアの物語を好きになれるなという感じなのでこちらの解釈を信じてみたいなぁと。
キラキラとした世界の中に描かれる革命と犠牲。自分も家族も社会も平和でなければ恋を叶えることができない。エンターテイメントを楽しむことはできない。そんなことを感じたアナスタシア2023でした。