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記録になくとも、記憶に(Glide)


先月から今月にかけ、とにかく色んなものを見てきたが、見ても見ても足りずに底がないという話をいくつか前の記事で書いた。

それが突然、ここ数日でせきを切ったように、千と千尋の神隠しでいう湯屋のカオナシのように、たくわえたものが形を変え、自分の中からやりたいことや作りたいものがどわっととめどなく溢れ出してきた。

そのどれも、はたから見たらなんでもないような、くだらないことばかりなのだが。

そうして、思いついた物語をメモに走り書きして、そのまま投稿したりしてしまっている。

普段の自分と切り離して作業に没頭していたからそうでない時間を生きたくなったのかもしれない。
やりたいことは発作的で波があるので、今はそれも楽しもうと思っている。

今回は雑多な話を残しておく。


先日、日比谷の映画館で『アフター・ヤン』という映画を観た。

ずっと観たいと思っていた映画で、やっと観ることができて本当によかった。

これは自分にとって大事になる気がするから、自分がそう思ったのなら、そう思った時に映画館で見たほうがいいと思っていたのだ。

こういう期待のし方というのは、「そうであって欲しい」という強いフィルターをかけてしまうので、自分の"見つめる目"自体を歪めてしまうからあまり良くないと思っているのだが、

はたして、それを超える素晴らしさ、そして高すぎない体温がこの作品にはあった。
こういう時、作品の内容に関係なく泣きたくなるし、心が弾むように嬉しくなる。


映画の感想は別でまとめているので、あらすじのみ

人型ロボットが一般家庭にまで普及した近未来。茶葉の販売店を営むジェイクと妻カイラ、幼い養女ミカは慎ましくも幸せな毎日を過ごしていたが、ロボットのヤンが故障で動かなくなり、ヤンを兄のように慕っていたミカは落ち込んでしまう。
ジェイクは修理の方法を模索する中で、ヤンの体内に毎日数秒間の動画を撮影できる装置が組み込まれていることに気付く。そこには家族に向けられたヤンの温かいまなざしと、ヤンが巡り合った謎の若い女性の姿が記録されていた。
映画.comより



ヤンは文化を継承するために作られたAIなので、当然メモリには残すべき(とヤンがプログラムで判断した)膨大な記録が残っている。
毎日、たった数秒の映像を記録している。
ロボットは、人から定義される存在を超えないはずだ。

ただ、AIロボットであるヤンの「記憶」、ヤンが残しておくべき、ではなく、残しておきたい、あるはずがなかった記憶がたしかに存在しているような、静かな中に輝きがあった。

それをどうにか形にしようというための音楽や、文字や、映像、編集で大事に描かれていて、諦観から始まる諦めない姿勢がとても好きだった。

この映画は、劇中と、ラストにフィーチャリング・ソングという扱いで、『Glide』という曲が流れる。



これは21年前に公開された岩井俊二監督作品『リリイ・シュシュのすべて』で使用されたLily Chou-Chou(Salyu)の歌う『グライド』のcoverであり、この作品に合わせてアレンジされている。

劇中ではヤンの「記憶」の部分と深く結びついている。


自分は『リリィ・シュシュのすべて』を観ていない。

そのため私の中には当然この映画の記録というものは一切なく、想起するものもまったくない。

のはずが、劇中この曲が流れ、ヤンから見える世界を垣間見た時、自分自身のなかの記憶が呼び起こされる感覚があった。

気だるさのあるメロディに"I wanna be"(私はなりたい)と歌うこの曲の、人やもの、環境とのつながりに対する渇望や、危うさ、ひりつき、喜びが、この曲を懐かしいと感じる記憶が、自分の中にあるような気がした。

人間もAIロボットもクローンも国籍も文化も、分類の違いはその記憶の前では記号でしかなかった。


それはもちろんこの作品の力、そして作曲した小林武史、カバーしているMitskiの力なのだが、自分のなかのメモリに存在しない、存在していても、記録としてではなく、体温をともなって記憶として身体のどこかにある感覚が、とても心地よかった。

作中、ヤンの膨大な記録のなかに、「人がこちらを振り返る瞬間」がたくさん残されていた。
これは、ヤンが文化として残しておく”べき”でなく、残しておきたい、記憶として大事に守っておきたかった記録なのかもしれない。

自分は頭の中でうるさく飛び交う言葉を、どうにか記録に残そうとして躍起になっている。
これは、自分自身が自分のために、ふとした瞬間に忘れてしまう小さな気づきを記録として残して、自分を見つめる手段の1つとしたいからでもある。

ただ、そのどれもが人から見たらなんの役にも立たないがらくたでも、自分にとってはかけがえのない宝物になり得るし、今の自分を形づくっていくもので、その自覚がないままでも自分にとっては大事にしておきたい記憶なのかもしれない。


自分がその繰り返しで残してきたものを、いつか初めて目にした人が、記録と記憶によって作られたものを見て、記憶にないはずの記憶を呼び起こすようになったらおもしろいなと思う。


映画を見終わったあと、外に出るとクリスマスのイルミネーションがこうこうと輝いていた。
泣いてぼーっとした頭のまま、ふらふらとその木の根元のベンチに腰掛けて、残りのキャラメルポップコーンを食べた。

風が吹いて、鼻がつめたく赤みをおびたが、とても心地が良かった。

世界がいっそう愛おしく感じられ、自分の周りを音楽や笑い声が駆け抜けた。
Glideを口ずさみながら日比谷を散歩して、電車に揺られて帰宅した。


それからも毎日聴いてしまっているのだが、自分の中ですぐに消えてしまう記録、情報としての映画から、記憶、思い出となっていつまでも残り続けるだろう。
いや、メモリにも、心にもとどめておきたい映画だ。


ああ、いい映画だった。もう一度観に行こうかな。

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