万物生々流転の中で一生懸命生きているわたしえらくない?みたいな
日々刻々と変化していく自身のメンタルと、それとは何の関わりもなく秒針の刻みとともに万転卒倒していく周囲の状況に応じて、その時々で期待される道化師を適切に演じながら、本当に言いたいことは煙幕の奥の奥のそのまた奥で幾重にもオブラートに包みながら、それでも言わずにはいられないどうしようもない事々を、とりあえずお酒とかストレスとか舌触りと耳障りの良さと人間関係とかいろいろの最大公約数を取りつつ、本当に聞いてほしいと少なくとも今はそう思っている人にそうではないようにこぼす現実、本当に救いがなくないですか。そういう人、世の中にたくさんたくさんいると信じて疑わないんですけど、そのような皆さまいかがお過ごしでしょうか。涙が出ませんか。わたしは赤い涙を流しています。
ままならないからわたしとあなたなのですが、所詮他人であるところのあなたとわたしは永遠に分かり合えないと、そんなことはとうの昔にとっくの昔に承知して消化したはずなのですが、それでもどうしようもなく心に積もった諸々を、どうしようもなく理解するか、そうでないならこちらの理解などできないことを完全に受け入れながらその上でわたしをまるっと包含してくれる人間関係がほしいと願ってしまうのですが、それはわがままでしょうか、エゴでしょうか、祈りと受け入れてもらえるのでしょうか、それとも単なる自尊心の肥大化でしょうか。わたしはこのまま虎になるのでしょうか。いかにも自分は***である。
会話における文脈はわたしの過去と現在と未来とあなたの現在とわたしとあなたとの関係とそういう間に生まれるものだというのは重々承知していて理解しているつもりだけれど、無自覚なのか自覚しているのかも分からないけれどたまにトスされる生身の刃物をつい受け取ってしまって手が傷だらけになる。でもあなたが無自覚だとしたらわたしの掌についたこの傷をあなたに見せびらかすのはとても自傷行為かつ悪趣味なので、なるべく自重しようと思っているのですがそれはそれで正しい行為なのでしょうか。正しいというのは、世間一般の文脈と、それはそれとしてわたしとあなたの間にこれまで流れていたとわたしが勝手に思っている文脈と、その両面で。
自分だって日々自分自身の内面から生じる変化と周囲から受ける影響とで少しずつ変化しているはずで、他者はもっと色んな要因で日々その一瞬一瞬で変化していて、わたしは自意識の肥大を意識しつつ、いつか目が覚めたら虎になることを恐れつつ、意識的に他者と自分の境目をなぞりながら日々を重ねているとして、その中で平常心を保っているようなふりをして何でもないようなことを幸せだったと四方八方に感謝しながら(他者に感謝できる人間だとは思われたいので)こじれこじれた自己肯定感や幸福論みたいなものを大事に大事に抱えつつ生きていくのってしんどくないですか。みんなしんどいと仮定した上で、それでも日々をなんでもなく生きていけるって本当にすごいし本当に偉いと思うので、みんな自分で自分を褒めれればいいし、他者に簡単に褒められる社会になればいいのになと思う。でもそうじゃないからここまで苦しい毎日を送っているんだろうな。毎日を苦しい苦しいと思っている人たちに救済があればいいな。それはもちろん、わたしも含めて。なんであれば一番救われたいと願っているかもしれない。そういう人間に蜘蛛の糸は切れてしまうのだけれど。
こういう文章はあんまりnote向きではないよなと思うのですが、わたしは日々の由無し事をnoteに書くと決めたので。なのでこちらに書きます。
今日はいい日だった。きっと。だから明日も、いい日になると思う。みんな一緒に幸せになろう。
終わり。
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