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答えが出なくても向き合う

おととい、急に寂しさを体内から感じた。
染み渡るような寂しさだった。

人との距離の取り方が、わからなくなると感じるこの寂しさ。
小さいときのわたしの声。


ビジネスシーンや、人をまとめるような場面などでは、卒なくその役目をこなすことができる方だと自分でも思うんだけど
プライベートなシーンで、わたしは相手にとってどんな存在なのか、距離がつかめなくなる感覚。

わたしにとって相手がとても大事な人であればあるほど、自分が近くに行っていいのか
他の人と親しくしている姿を見るとわたしはどうしたらいいのか、という得体の知れない寂しさに襲われた。

小さい頃から同世代との関わりをほとんど持たずに育った特殊な環境を恨む。
https://note.com/autumn44/n/ne945fe17c888
今更児童期に戻ることもできないのはわかっている。
学校に行っていてもそこで対人関係の悩みを抱える人生だったかもしれないけれど
普通に同世代の子達と、毎日笑ったり喧嘩したりすれ違いを経験してみたかった、というどうしようもない自分の過去に苦しさを覚える。

学校に行っていたら
友達がたくさんいれば
人との距離感が自然と体得できていたかもしれない

たらればが沸き起こる。

答えなんてないかもしれない
でも感情から逃げずに向き合う、感じる、感じ切ることをしていて、湧いてきたことを書こうと思う。
考えるヒントをくれた友人達に感謝の気持ちを込めて。

人は皆、親が選び、望んだ環境を選択することになった場面が多々あるはずだ。
どこかしらの場面で親の敷いたレールにのせられ、それを降りるチャンスはあったとしても勇気が出ずに今に至る、ということも多いと思う。

イヤイヤやっていたお習い事、塾、遊ぶ相手に口出しされた事がある人もいるだろうし、進路には大なり小なり親の意向が入ってるんじゃないだろうか。その先の就職、結婚、子育てにまで。

子供にとってはイヤイヤやるお習い事や塾が実力として身につくのか微妙なところではあるし、名門高校や大学に入ったら、それがこの先の人生が自分をありのまま受け入れ、しあわせに生きるという保証に繋がっているわけではないのだ。しかし親はなぜ自分が子供だった頃の気持ちを忘れて我が子に繰り返すのだろう。勉強しろ、と。
一番いらない声かけをしている自分を反省することにまで繋がってきた。


完全に自分のやりたいことしかしてません、親はお金と衣食住整えてくれていただけです!みたいな人ってあまりいないだろう。

その時はその道しかないと思っていたり、ふとした時に自分の道を歩みたいと思っても、迷惑がかかるとか、可哀想とか、自分より他人のしあわせを優先してきている。

実際親のこと見捨てて自分のやりたい事やるわい!ってやる人が正しい訳じゃないけれど。

親や環境に縛られている自分を感じる、縛られてることを結局は自分が選択している、そこには自由がないようで冒険しないことで得られるメリットもあってその恩恵を受けてきてるはず。

自分の選択した事をまるごと認める。たとえそれが今は妥協と感じられたとしても、あの時あーすればこーすればと考えるより、あの時あの場面でのわたしの選択はその時の最善を選んだんだと感じ切りたい。

わたしはわたしがしあわせに生きる姿を子供に見せたいし、我が子の選択を信じる親になりたいのだ。
#距離感 #敷かれたレール #育児はやり直しができる #育児は育自 #教育虐待

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