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89年の夏④心に決めた

9月の空気はまだ夏の名残を感じさせながらも、
次第に秋の香りをまとい始めていた。
ノッティンガムでの平穏な日々を終え、
僕は新学期が始まるコンコードへ戻った。
校内はまるで世界の縮図のように、
あらゆる国から生徒たちが戻り、
それぞれの再会を喜び合うざわめきで満ちていた。

ベルハウスの希望していた部屋が割り当てられたことを知り、
安堵しながら荷物を運び入れる。
その作業は新学期が始まるこの時期、
毎年恒例のお祭りのようなものだった。
慌ただしい中にも期待が満ちている。
部屋を整えた後、僕はメインホールへ向かった。
そこで手紙を受け取る列に並び、
受け取った束を慎重に確認する。
誰からの手紙があったのかはもう記憶には残っていないが、
サユリからの手紙があったことだけは鮮明に覚えている。

その手紙には写真が同封されていた。
そして先週、写真を整理している時に、
30年の時を経てその手紙だけが他の記憶と混ざり、
今手元にあるという不思議な偶然。
なぜその手紙だけが残ったのか、
自分でも理由はわからなかった。
ただ、30年ぶりに読み返すその手紙は、
懐かしさと共に当時の思い出を
鮮やかによみがえらせた。

サユリの手紙を開くと、
あの頃の風景が頭の中に広がる。
彼女の優しくも正直な文面は、読んだ当時、
僕を深く落胆させた。
マユの母親が日本に帰ってもなお
ルミたちへ連絡を取り、状況をさらに
悪化させていることが書かれていたのだ。
イギリスの田舎に閉じ込められているような自分には、
どうすることもできず、無力感が胸を締め付けた。

サユリの手紙には、ルミとの会話が記されていた。
「私たちって、ふーちゃんのあの瞳に
だまされちゃったんねー。」と笑いながら話していた
という彼女の言葉。
その一方で、最後の「ルミに『ふーちゃんを信じなさいネ』
ってきっちり言います」という一文が、
かすかな救いとなった。

夕方、メインホールへ向かうと、
ロビーのソファーにマユの母親が座っていた。
その場にいた日本人の女の子たちと
何か話している彼女の姿を目にした瞬間、
怒りとショックが同時に押し寄せてきた。
僕はその光景を横目で見ながら、
感情を抑えるように足早に階段を上り、
モリス校長の部屋へと向かった。

校長室でのモリス校長との会話は、
今でも忘れられない。
彼は落ち着いた表情で僕の話を聞き、こう言った。
「話はケース先生からも聞いていたし、
先ほどマユの母親から君を退学にしてくれと言われたよ。
でもね、これまで君を評価していた彼女が
急に態度を変えたことには、
私も信じがたいものを感じている。
彼女の行動は過保護すぎて、
他の生徒や親たちからも苦情が出ているよ。
この状況では、マユ自身も気の毒だ。」

さらに校長は、僕に静かにアドバイスをくれた。
「この部屋を出たら
ロビーを通らずに部屋に戻りなさい。
マユの母親には、これ以上学校に来ないように伝えてある。
我々は君を信じているし、
恐らくマユは転校することになるだろう。
明日になれば状況は変わっているよ。」

あの日から5年後に訪れたモリス校長…祖母と一緒に挨拶に行った時の写真かな

校長の言葉に従い、
僕はホールの反対側から裏の階段を下り、
中庭を抜けてベルハウスへ戻った。
翌日、校長の言った通りマユの母親の姿は消え、
新入生たちが到着し、
学校には新学期の活気が戻ってきた。

胸の中にはまだ複雑な感情が渦巻いていたが、
僕は未来を見据えようと心に決めた。
過ぎ去った出来事も、サユリの手紙に残された言葉も、
今の僕に何かを伝えようとしているように思えたからだ。

(つづく)


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