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89年の夏① 僕の知らないところで

インスタを眺めていると、ふと「さゆり」
という名前のアカウントが目に留まった。
画面に映る写真には、
どこかで見覚えのある顔があった。
でも、僕の記憶の中の「さゆり」なら、
去年ワーホリから帰国して結婚したはずだ。
この女性は違う…いや、待てよ、
どこかで出会った気がする。
でも、どこで?

その疑問に導かれるように、
僕はインスタの「連絡先からのおすすめ」を辿り、フルネームの名前を見つけた。
そこに表示された
フェイスブックのリンクを開くと、
彼女の旧姓が目に飛び込んできた。
そうだ、この人だ。
記憶が一気に過去へと遡る。
出会いは1989年の夏、
イギリスのコンコードカレッジでの
サマースクールだった。

あの夏、僕は友人のミックと一緒に
ヨーロッパ旅行のツアーに参加した後、
コンコードカレッジに戻った。
前年から夏のサマースクールで
2週間ほどコースアシスタントをしていた僕は、
日本から来た短期留学グループ
小学生から高校生までの30名
のお世話を任されることになった。

彼らは1週間の英語授業を受け、
その後ロンドンやパリ、スイスを観光する
というプランで訪れていた。
翌週には先に旅行を終えたBグループが来る
僕の役割は、校長先生の挨拶の通訳や、
部屋への案内、さらには乗馬やクレー射撃、
遠足の添乗まで、多岐にわたっていた。

そのAグループの中に、「ルミ」
と呼ばれていた4歳年下の少女がいた。
彼女に恋をしたと言っても、
それはほんの淡いものだった。
一緒にいられる短い時間を、
ただ大切に過ごしたい。それだけだった。
彼女が特に親しくしていたユカ、
ミチ、そして冒頭に登場した「サユリ」
と常に行動を共に楽しい時間を過ごしていた

ルミとアイススケートをしたとき、
ほんの少しだけ特別な瞬間が訪れた。
滑るリンクの上で彼女と手を繋ぎながら進む、
そんなささやかな時間が、
まるで永遠に続けばいいのにと思った。
しかし、その幸せな時間はすぐに途切れた。
リンクの反対側で転倒したハナが、
起き上がれず困っているのが目に入ったからだ。「ちょっと行ってくるね、大丈夫?」
とルミの手を離し、
僕はハナの元へ向かった。
結局、彼女を病院へ連れて行き、
戻った頃には夜が更けていた。
ルミと再び手を繋ぐ機会は、もう訪れなかった。

その後、ルミの態度が急に冷たくなった。
理由は分からないままだった。
サマースクール最終日、
お別れ会の夜に彼女と少し話すことが出来た
でもなんだか気まずい雰囲気のなか
表面的な会話しか出来なかった気がする…
翌朝のバスで彼らがロンドンへ向かうのを
見送るだけだった。

そしてあの夏から30年以上が過ぎた今、
フェイスブックで再会した
「さゆり」の顔を見つめながら、
僕の胸に浮かんだのは、
あの時聞いたひとつの話だった。
サマーコースが終わり、
空いた時間にチェスをしていたとき、
ほかの日本人の生徒が僕に
ぽつりと話をしてくれたのだ。

――僕の知らないところで、
何かが起こっていたらしい。

(つづく)


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