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主婦、コラソンアキノ(再掲)
ヒストリーチャンネルでコラソン・アキノの特集をやってました。だいぶ前に。
鄧小平の特集のついでくらいのつもりだったんですが、これがかなり面白かった。
今日はそのコラソン・アキノについて話をさせていただきたいと思います。
2009年8月1日。
フィリピンの元大統領だった一人の女性ががんで亡くなりました。
名前はコラソン・アキノ(以下コリー)、76歳の生涯でした。
1933年、コリーはフィリピンでも有数のお金持ちの家に生まれました。生まれた時の名前は、コラソン・コファンコ。不自由なく育ち、周りにも恵まれた彼女は1953年に留学していたセントヴィンセント大学を卒業します(20才)。周りからも才女と誉れのあった彼女ですが、運命を決定づける男と出会います。
1955年、コリーは結婚します。相手の名はベニグノ・アキノ・ジュニア(以下ニノイ)。地元の名士の家に生まれた、自信家で野心のある男でした。彼は元々政治家である父を10代の頃に亡くしており、生まれが貧しくはないとはいえ、彼自身はまだ背が伸びている頃から、自分の生きる意味と国というものに、関心をもつようになります。
将来大統領になるのだと野心を燃やすニノイ。コリーは自分の役目を自覚し始めます。彼女は分をわきまえ、ニノイの妻である自分は決して表にはでず、良き妻で、良き母親でいることに勤めました。ニノイは順調に出世階段を昇りつめていきます。
時はたち1973年の大統領選の頃にはニノイアキノの当選が有力視されていました。
時の大統領であるフェルナンド=マルコス(以下マルコス)に対する反感が強まり始めていたからです。
マルコスは1965年に大統領に就任し、(みんなの友達アメリカの支援のもとに)積極的な善政を布くことで、はじめ数年間は非常に民衆からの支持の高い政治家として評価されていました。彼は民衆のホープでした。しかし1969年大統領再選にあたって、対立候補や、左翼組織と武力衝突をたびたび重ねました。彼は血を流すやり方で再選を果たし、これを契機に次第に民衆の心はマルコスから離れていきました。
1972年マルコスは戒厳令を発布します。憲法(1935年制定)を停止して、自分に歯向かう者には容赦しないという独裁政治によくみられるもので、アメリカという国がフィリピンを支えていたのにも関わらず、フィリピンは民主主義から遠のくように、議会は解散し、国民の表現の自由のすべてが奪われました。
当時、マルコスに反対する勢力の旗手として目立っていたニノイは投獄されます。コリーはニノイが投獄されたその日から子ども達のために父親代わりをつとめあげます。彼女の闘いの日々この時から始まりました。
投獄中に国家に仇なすものとしてニノイは死刑を言い渡されます。
このとき、優秀で常に強くあり、投獄中でも、マルコスの批判をやめなかったニノイは涙をながしたそうです。しかし、コリーは泣きませんでした。彼女は自分にできることを冷静に見極めていきました。
コリーの働きと、マルコスの油断でなんとか死刑執行をまぬがれたニノイでしたが投獄は以後も続きます。1980年にニノイに転機が訪れます。投獄中に体調を崩したニノイが心臓手術を目的に渡米が許可されたのです。これにはマルコスからの「帰ってくるなよ」というメッセージが込められていました。8年にも及ぶニノイとコリー、そしてその家族の闘いは一旦幕を閉じました。
ニノイにとってこれは亡命でしたが、しかしこれはコリーにとってはよいことでした。彼女は普通の幸せを求めていました。夫を失いたくなかった。そして8年離れて暮らしていたニノイが戻ってきて、また家族一緒に暮らせるようになったこと、ニノイに健康的な生活が戻ったことがとても嬉しかったのです。
それとは裏腹にニノイはコリーとは別に彼は祖国に戻る機会を伺っていました。平穏な生活を手にしても、彼の心の祖国への思いの火は消えなかったのです。
1983年に待ち望んだ転機がやってきます。彼は国際舞台の場でマルコスを批判し、そして自身の祖国への愛を訴えます。同年彼は、フィリピンに帰国。しかし待ち受けていたものは暗殺でした。
彼は飛行機から降りたその直後に銃殺されます。警備兵は微動だにしませんでした。一説では暗殺をしたのは警備兵ではないか、とも言われています。マルコス大統領はこの事件に対して「共産主義者の仕業」と言いました。
民衆はこの事件を気に爆発的なデモを起こします。
民衆はウンザリしていました。マルコス政権に、娯楽のなさに、飢えに、そしてニノイという嘱望された一人の男を殺されてしまった事に。
これはエドゥサ革命(別名:ピープルパワー革命)と言われ世界史としても重要な歴史的事件として扱われています。
それはコラソンアキノを求める声でした。
職業欄には主婦として選挙にでたコリーですが、
当然いままで一介の主婦だった人間になにができるのかと反発をくらいます。
しかしコリーは強い意志でこれをはねのけます。
『確かに私は未経験者です。
おかげで、詐欺も盗みもウソも政敵暗殺も、私には経験がない!!』
これまでにない視点で未経験を美徳として選挙を戦うコリー。
彼女は当選を果たしマルコスを亡命にまでおいやり、
ついにマルコスの20年以上に及ぶ閉ざされた政治に終止符を打ち、
人々に自由をもたらしました。
しかしながら彼女にとってそれは本当の闘争の始まりでした。
コリーが当選を果たした事に反感を持つ分子はそれでも何十万人という単位でいたからです
毎年のようにおこる民衆のクーデター、国軍による反乱未遂。死者も当然でました。
それに加えて火山噴火等の自然災害等、国難が毎年のようにコリーを襲います。
任期満了時には六年間での実績が少ないとコリーは非難されました。
しかし、彼女に対し誰も批判できない点があります。
当時のスポークスマンのサギサクは言いました。
『コリー政権は誰も騙さず、ウソをつかず、搾取もしませんでした。
それは、私たちの仕えた女性がそういう人だったから。』
コリー政権発足当初は、有名企業から電話がたくさんかかってきて、輸入許可の不正な依頼がたくさんあったそうです。
でもその度に、サギサクたちは
"マルコスはもういない"と答えたそうです。
政権交代前のコリーは予定表に退任までの日を印をつけて逆算してたそうです。
彼女は1992年に大統領を引退し政界から完全に身を引きました。
彼女は普通の生活を望んでいたからです。
一度有名になってしまった身なので、実際はそう静かにはいかなかったようです。
2009年8月1日に癌で病死。
ここからは私の個人的な感想です。
ニノイが亡命したときも、
革命を起こしたときも、
引退まで日数を数えるときも
彼女は主婦であったように思います。
彼女が大統領になった一連の流れをさして、民主主義の奇跡、ピープルパワー革命と言われます。人々が一介の主婦を担ぎ上げ、そしてその主婦のもたらした政権に『実績がでていない』と文句が言えるほどの自由をもたらした。
彼女が『主婦』であったということが、僕は彼女が『民主主義の象徴』であった、と思います。
私はコリーがすごいと感心してやまないのは、彼女が自分の位置をきちんと認識し続けた事です。権力を手にしても決して溺れず、惑わされず。彼女は一人の主婦としての自分を失いませんでした。
これだけの激動の人生を歩んでいるのに、どうして自分を失わずにすんだのだろうか。
彼女が普通を望んでいたからだといえばそうですが、彼女は自分の持つ力を利用してわがままを押し通してもよかったはずです。でも、国民の為以外で強引な手段を彼女はとりませんでした。
『当たり前』って実はとても難しい。
彼女と自分を比べると、わきまえが全然できてないな、とあらためて思い知らされます。
人の前にたつって難しいですね。