ぼげらぁっ、を邪魔する者に裁きを。
ぼげらぁっ、とするのが好きだ。
ぼげらぁっ、とは何だよ、といったご質問は当然だと思うが、これは僕の中で、ぼけーっとする、の最上級である。
どう違うかというと、ぼけー、は周りの音にまだ気が付ける状態。
ぼげらぁっ、はノイズキャンセリング状態という極めて危険な状況で、出来ることならやめた方が賢明だ。
ところが僕は、ぼげらぁっ、が危険である余り、世界的に減少している昨今の情勢を鑑みて、あえて、ぼげらぁっ、をやっている。
このままでは、ぼげらぁっ、が消えてしまうかも知れないのだ。
けれどやはり、そんな時に話しかけてくる無神経な人々が一定数はいる。
まあ、いいですよ、1、2回ぐらいならこちらも快く対応しましょう、と大人の器を余裕で構えていると、奴らは3回、4回を通り越して無限に話しかけてくる。
そんなに用件があるのか、僕は天皇かなにかなのか?と疑心暗鬼になるが、そんなわけがない。
いくら僕が、ぼげらぁっ、を極めつつあるとしても、あれ、今何か言ったな、ということぐらいはさすがに気づく。
だが、何を言ったのか、何に対しての言葉なのかが不鮮明なのだ。
聞いてなかったの?と思われるのは結構なことだが、ぼげらぁっ、に理解をしめしてい人にとっては、なぜ聞いていないのか不思議らしく、いい加減な返答をすると不機嫌に包まれて嫌ぁな空気になる。
それは避けたい。
ここにいい言葉がある。
「たしかに」という言葉だ。
「ねえねえ、お腹減らない?」
「たしかに」
「今寒くない?」
「たしかに」
「運動不足だなぁ」
「たしかに」
なんと、だいたいの会話が「たしかに」で捌けるではないか。
これは発電機以来の発明、大化以来の改心、文明以来の開花だ。
思いついて以来、僕は「たしかに」を頻繁に使用した。
「たしかに」レンタル業があれば延滞金は凄まじいことになっていたことだろう。
そしてある日、嫁はいつものように、ぼげらぁっ、の邪魔をしてきた。
よしよし、捌き切ってやろうではないか。
「そういえば、次の休みいつ?」
「たしかに」
「…聞いてなかったでしょ?」
捌けなかった。
「たしかに」レンタル業者にクレームを入れなければ。