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DAY63)2つ目の軸、とほほとあはは


保育実践者であり保育研究者でもある友人に、以前こんなことを言われた。

「しゅうへいさんは、ウニみたいな人ですね」
「研究ってのは、1本の剣を磨くみたいなことなんですよ」

彼からみたら、おそらく僕は多動で多目的で、色んなことに興味がありすぎるのだろう。よく言えばウニのように色んな向きに針が向いていて多面的な視点を持っており素敵なことだが、反面、色んなことに興味を持ちすぎて核が定まらず深さがない。浅く広いってわけだ。

うんうん、よくご存知で。「まさに」って感じで、うまく自分を表現されている。今だって図書館に行くと、本来の目的や調べたいテーマがある一方で、知らず知らずに気になる本を見つけて、いつのまにか借りれる冊数を超えていることもしょっちゅうある。自分の魅力的な部分であり、欠点でもある。「とほほとあはは」である。

今は大学院に入り「保育者の熟達化」という研究テーマがあるが、それでもなお範囲が広いのだ。熟達化と一言で言っても「熟達化とは何か」という問いから始まり、保育者のどの部分の熟達化なのか、対象者や年齢層などなど、もっと絞らなくてはいけない。いまは「中堅以上の保育実践者の新人保育者もしくは実習生へのまなざしと、子どもへのまなざしの関係性」を調べたいと思っている。現在は先行文献を読んでいる段階なので、今後もっと研ぎ澄まされるだろうし、ちょっと変化するかもしれないが、最終的には友人に言われた「1本の剣の」のようになっているだろう。

しかし、ここでまた出てくるのが、その研究の成果は「保育者の熟達化」のある一面、もしくは筆で書いた一点程度の小さいことであるということ。言い換えれば、保育者の熟達化はもっと多面的であり広大である。もっと言えば、保育は果てしなく広い。海のようで、銀河のようだ(おいおい、すごいとこに足を踏み入れちゃったな笑)。

さて、モノゴトは広いのだ。今日の授業「保育者特論」では、川田学氏「保育的発達論のはじまり」から「子ども観とは何か」を「歴史的背景」から解いていった。歴史的背景は、ある程度決定事項であるので、事実を読み解きながら進んでいった。

・鎌倉・室町時代には、子どもに対して無頓着であった
・江戸時代から大きく変化し、子どもに愛着を持つようになった
・しかし、二面性があり、堕胎する一方で、残った子を可愛がる姿があった
・ルソーの「エミール」から「子どもの発見」がなされ、今の子どもの人権に繋がった
・20世紀に西洋教育思想が入り「保育」が生まれた

今回はこのくらいだが、もっともっとある。いや、まだまだあるし、知らないことだらけだ。高校時代に世界史で最下位を取っていた自分が驚くくらい、今の自分は歴史が面白く感じている(これが学びへの欲求だろうか。子どもたちにもこちらから一方的に教える教育でなく、こういう欲求が生まれる生活を送ってもらいたいなと、ふと思う)。

そして、その歴史的背景から「日本の子ども観」を知り、今度は「自分の子ども観」を解いていく。つまり、自分の子どもへのまなざしというか、見方や捉え方だ。これを理解することで、子どもが見え、その子にどんな関わりや保育をすべきか見えてくるだろう。だから、自分の子ども観を見つめることは大切だ。今回こうして「歴史」という側面を手に入れた(実質はもっと知らないといけないことが多いので、ツールを手にしたというのが正しいか)。これで2つ目だ。1つ目は「世界の子育て、保育を知る旅」で感じた世界各国の文化や風土、そして保育教育である。本当に多様で、決して1つじゃない。

自分の子ども観を理解するのに、もっともっと視点はあるだろう。知れば知るほど、視点の多さに気付き、絶句するかもしれない。どこまで行けるか。どこまで研ぎ澄ませるか。楽しみであり、どきどきでもある。

しかし、どんなときも忘れちゃいけないのは「子どもと出会うときは、いつも新鮮」「今までの視点をいったん横に置く」ということだ。倉橋の言葉を借りれば「驚く」ってことだ。

追伸:
①10月から川田学著「保育的発達論のはじまり」の読書会なるものを始めようと思っています。ぜひご参加ください。

②8/20(土) 3つの場を設けます。ぜひ遊びに来てくださいね〜

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