DAY50)「青春はパンクロック」と「子どもらしさとは」
先日、ふと思った。「なんで僕らは青春に憧れるのだろう」と。
僕も現在放送されている青春ドラマや青春映画は好きだし、現在流れる青春ソングも嫌いじゃない。しかし、一方で「おじさんはもっと楽しいぞ〜!」とも思う(今が一番である)。
あれ、いつの間に、そう思うようになったのだろう。いつも「いまが一番楽しい」と思うと同時に「青春の青臭さ」も好きで、思春期のあの感じも好きだった。しかし、ふと思うと、いつの間にかあの青臭さに関心や憧れの気持ちが無くなっていた。なぜだろう。
しかし、一方で、僕の青春ソング「GOING STEADY」の「 もしも君が無くならば 」を口ずさみ、青臭いあの頃を思い出し、熱い思いになってたりしてた。なんだこの感情は(苦笑。
今日は授業で「子どもらしさ」ということについて話になった。きっかけは先日から学んでいる川田学氏「保育的発達論のはじまり」の第3章よりである。
まず前提として、この章では以下のことが書かれている。
これらの中で、「子どもらしさ」ということにフォーカスされた。クラスメイトのAさんは「うちの施設では、普段からよく「子どもらしさ」という言葉を使います」という。またBさんは「うちの施設では、あまり「子どもらしさ」という言葉は使いません」という。この違いは何か。
「Aさんの施設では、概念的に子どもと大人を分けて考えやすい傾向があるのか」「Bさんの施設では、あまり分けず、一人の人間として捉えているのか」の違いなのか。では、ヨーロッパ諸国の多くでは「子どもを一人の人間としてみる」と一般的に言われているので「子どもらしさ」という言葉は使われないのか。では「日本ではなぜ使われているのか」。
そう考える中で、僕ら現代日本で使う「子どもらしさ」という意味に、大きく分けて➀「子どもは幼稚な存在(ネガティブな捉え方)」と②「子どもは未熟で、これから育つ」という捉え方があるのではないかと行きついた。
そして、川田氏が言いたいのは「子どもは未熟な存在である。しかし、この未熟とは、未だに熟していないという見方ではなく、未来に熟す存在というみたかである」だと思う。
では、僕ら保育者は、子どもを「未だに熟していない存在」としてみているのか、はたまた「未来に熟す存在」としてみているのか、どっちだろう。僕自身、普段から明確に意識していなかったが、改めて問われてハッとした。無意識的に、実どちらかというと、実は前者のようだったかもしれない。しかし、前者のような捉え方であると「では、子どもを育てよう、育たせよう」という発想になりやすく、子どもを人間としてみるではなく、子どもを子どもとしてみており、教える対象として捉えやすいように思う。
やはり僕ら保育者は、「子どもは未熟で、自律的で、有能である」と前提としながら、「未熟=未来に熟す」と捉え、「子どもと共に育つ保育観」を持つことが重要に思った。そうすることで、やはり子どもは未熟であり、社会的に価値があり、共に世界を作っていく仲間であり、文化を継承していく存在であると再認識することが出来る。
こうして様々な学びが、今までの経験でボヤっとしていたものをカチッと言語化・可視化されていく喜びを感じる一方で、ヤバッ!と自分のずさんな無意識さと浅はかな思考や行動に出会い、感情はジェットコースターのようだが、それもひっくるめて楽しんでいけたらと思う。
そう考えると、思春期のあの青臭さはとても華やいでいて、社会にもとても重要な存在である。いますぐあの時代に戻りたいかと言われれば躊躇してしますが(だってあの時代はあの時代で良いことも大変なこともあって、それを経験した今が何よりも楽しいし、過去より未来が楽しみであるから)、そんな青春時代も大切であり、いまその時代を生きている方には思う存分、未熟を楽しんでもらいたい。そして一緒にこれからを作っていけらた何よりも嬉しいな、おじさんとしては。
次回noteのタイトルは「保育大学院生の研究テーマ」です。お楽しみに~♪♪
追伸
高校に入ってパンクロックに出会い恋してしまったが、一方で、今の僕と同じ髪型を高校一年生からしていた友人に作ってもらったオリジナルMDで「蜂と蝶」に出会い、もうそれからHIPHOPを愛してしまった。