#18 祖母の残してくれたもの
こんにちわ
aurinkoです。
今日は私の祖母のお話しでもしようと思います。
乳がんの発覚
祖母は、2022年9月乳がんで87歳で亡くなりました。
その年の3月ごろか、右胸にしこりがあると
私の母に相談したのが始まりです。
GWに帰省したときに、それを知らされました。
正直しこりってどんな感覚なのかわからなくて
乳がんにも4種あり年齢から細胞は若くないので
進行も遅いタイプだったらいいねーなんて
言っていたのですが
その後のPET検査では悪性とわかり
6月中旬に手術することとなりました。
GWは、たまたま1週間のお休みをいただいていたので
バーベキューをしたり
祖母の姉妹宅えお邪魔してアイスクリームやおせんべいなんか
食べながら雑談し今となっては大切な思い出です。
入院中の祖母
6月中旬に3時間のオペを無事終え、もうそろそろ退院かなと思っていたら、
膝の痛みにより発熱したようで少し退院が
延期になりました。
叔父に聞くとよほど早く退院したのか
予定退院日の朝の5時に携帯電話で
「今日向かいにきてやー」とかかかってきたそうです。
なんともかわいいおばあちゃんだと思いました。
そこまで回復してよかった!って思っていました。
それでもやはり恐ろしい癌
7月はふつーに過ごしていて
様子をみに7月下旬帰省したところ
ご飯をたべるたびにせき込むのがすごく気になり、、
すごく心配していたら
肺に転移していることがわかりました。
87歳で大きな手術を繰り返すのは
体や精神的負担も大きいことと
本人ももうしないと決めていたようで
穏やかに過ごすこととなりました。
この時は、もう少し一緒にいたい気持ちでいっぱいで
なんとかご飯も食べてほしいし
体力つけてほしいと思って
バナナジュースやおかゆなど食べやすいものを
作ってあげていたような気がします。
東京⇔京都の距離を2週間に1回は飛行機で移動し
なるべく祖母のそばにいるように努めました。
8月の後半からは、
日に日に容体が悪くなっていくのを感じ
ここは本当にしんどかったです。
肺に癌があることで
呼吸もしづらくなり
東京で仕事をしていてもふと一人になると
涙があふれそうでした。
最後の一週間
9月4日の日に父から電話があり
救急車で運ばれた話があり
「もう間に合わないかもしれない」といわれました
頭真っ白になりながら
荷物をまとめ新幹線にのりこみ
京都の病院へ向かいました。
新幹線の中では涙がとまらず
どうか間に合ってと願いながら過ごしておりましたが
少し落ち着いた報告を受け一安心しました。
15分の面会
コロナの影響で面会時間はたったの15分に制限されました
でもなんか祖母はすごく元気で
よくしゃべる喋る、今何時?とか聞いてきたこと
今でも覚えています。
緩和病棟での生活
お仕事柄病院を回ることがあり
緩和ケアのポスターをよくみかけます。
緩和ケアは、がんによる心と身体の苦痛をやわらげ、自分らしい生活を送れるようにするケアのことで
祖母も延命治療はしない、進行しても手術はしない選択をしたので
こちらの病棟に移りました。
緊急入院の時点でもって3日と救急外来の先生に言われていたので
仕事も在宅にさせていただき
9月4日からはずっと実家ですごし
1日1時間祖母にあいにいきました。
祖父も91歳でしたが外来病棟から緩和病棟まで
10分かけてふたりでぼちぼち歩きながら向かったのも
思い出です。
ちなみに痛みをやわらげるために
医療用麻薬を投入していたので
幻覚症状が現れるようです..
それでもいつも行けば、
「仕事大丈夫なん?」
「もう夜ごはん作らなかんやろ、かえりやー」
って人の心配ばかりする祖母でした。
最後の最後までやさしく見守ってくれている
おばあちゃんでした。
9月8日5:03
4時に叔父から呼吸がとまった連絡をきき急いで病院に向かい
父、叔父、祖父の3人の立会のもと死亡確認をしました。
病室に入れるのは3人までで私は控室で待機していました。
ついにきたかという感じと
私がずっと何十年とみてきた祖母じゃない姿を
しばらく見ていたこともあり
穏やかに眠っていることが嬉しかったです。
ほんとよく頑張ってくれたし
30年ものあいだ祖母とたっくさんの思い出をつくれたこと
大きな愛情もって接してくれたことに感謝しかなく
そしてなにより緊急入院から毎日顔を出せたことに
心から感謝です。
というのもコロナの流行から
病院の通常面会は普通の病棟だとできなかったようで
緩和病棟だからこそ、
毎日1時間一緒にいれたようです。。
祖母の残してくれたもの
①バーバリーのダウン
②プラダのショルダーバッグ
③エッフェル塔のワンポイントが入ったパーカー
④現金
⑤かけがえのない一緒に過ごした時間
①-③は祖母が身に着けていたもの、
高島屋など百貨店にいくとき
旅行する時に着ていたものをゆずってもらいました
なんにせよ
お金をかけるところにはかける
そして物を大事に扱っているのがよくわかるほど
綺麗です..
④数万の現金のうち一部で
パールのネックレスを購入しました。
どうやら京都=東京の交通費みたいな感じで
くれたようですが、
消えるのもったいなすぎて、
一生大事にできるネックレスを購入しました。
⑤何よりも祖母と生まれてからその日まで一緒に過ごした時間が、
本当に大切です。
小学校の時は、月1で百貨店めぐり。
中学校の時は、私が絶賛反抗期😭
高校の時は、反抗期もおさまりテスト中は午前で終わることが多く
最寄り駅で買い物終わりの祖母と合流してランチ🍚
大学の時は、とくに留学中にすごく心配をかけてしまった。
留学生活がつらくて帰りたくて毎日泣きながら学校に行って、
夕方くらいかな?毎日2時間弱祖母と国際電話していた。
(当時の電話代月に8-10万だったらしい..!!父に帰国後しばらしくして告げられた。)
短期留学の学生が帰国してしまった後期は、ひとりでの戦い。
数人日本人の子がいたけど、それぞれクラスも履修科目も違っていたから
ほんとしんどかった。
Basic Economicsを履修してたんだけど毎回の小テストは、
スコア半分くらいひどい時は、30点とか。
このままいけば単位落ちだったそのプレッシャーに、
どうしても弱音をはけるのが祖母しかいなくって心から感謝している。
(単位は無事とれた!)
他にも、人とのかかわり方・お料理・礼儀・季節のイベント・京都弁(え?)等々いろんなことを学ばせてもらった。
おばあちゃんにとっての孫は、妹と二人だったからこそ
親以上に愛情をもらった。
もうあと1カ月少しで3周忌だけれど、
おばあちゃんには、これからも見守っててねって伝えようと思う。