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マリー=アントワネットの髪は一夜にして白髪になったのか?

こんにちは、オレリアンです。
前々から書きたいなという記事があったけど、どこに書いたらいいのかわからないのでここに書こうかなと思います。

それは「マリー=アントワネットの髪の色」についてです。
マリー=アントワネットはもちろん誰でも知っているかと思います。オーストリア、ハプスブルク家の女帝マリア=テレジアの娘で、ルイ15世の計らいにより、ルイ16世(ルイ15世の孫にあたる)と政略結婚し、フランス王妃となった女性です。フランス革命の動乱の中で処刑されてしまったことであまたの伝説がついています。
マリー=アントワネットにまつわる伝説の一つに「処刑される恐怖で髪が一夜にして真っ白になった」というものがあります。この記事ではその正否について検証していきます。

マリー=アントワネットの白髪に関する一次資料


よく、「マリー=アントワネットは処刑の恐怖で白髪になった」と書いてある記事を見かけます。なんなら格式高いフランスのLe Monde紙でも「Selon la légende, la dernière reine de France vit sa chevelure devenir blanche dans la nuit précédant sa montée sur l'échafaud, le 16 octobre 1793.(伝説によると、フランス最後の王妃の髪は1793年10月16日断頭台へと昇る前夜に真っ白になったとされている)」と書いています。
私のほうでは「処刑の前夜に白髪になった」という一次資料を確認できていません。おそらく、マリー=アントワネットの髪が一夜にして白髪になったとされる出来事の一次資料は、マリー=アントワネットの側近であったカンパン夫人の回想録によるものと思われます。マリー=アントワネットで一つのファーストネームなのですが長いので以下アントワネットとします。

カンパン夫人について


Jeanne-Louise-Henriette Campan

カンパン夫人はJeanne-Louise-Henriette Campanと言って、主席侍女(Première femme de chambre)としてマリー=アントワネットや国王ルイ16世やその子供たちの侍女として知られています。当時王家と親密だった人たちはギロチンにかけられた人が多くいます。カンパン夫人も家を燃やされたりしています。同じくアントワネットの侍女であったオギュイエ夫人はギロチンにかけられるのが嫌で高所から身投げをしてカンパン夫人がその子供を引き取ったりしています。革命が長引いていたらカンパン夫人の命も危なかったと思いますが、1794年7月27日に革命政府の実質的トップだったロベスピエールが失脚し、カンパン夫人は間一髪で生き延びることができました。その後は学校を設立したりして69歳まで生きています。
出版されたのは死後ですが、フランス革命期の出来事をつづった回想録を出版しています。「Mémoires sur la vie privée de Marie-Antoinette, Paris, Librairie Baudouin frères, 1822」というタイトルです。フランス国立図書館のデジタルアーカイブで無料で全部読めます。
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k2050396/
私は原書で読んだのですがおそらくこの回想録は日本語訳は出ていないようです。一応日本語でカンパン夫人に関する書籍(「カンパン夫人:フランス革命を生き抜いた首席侍女」)も出ているようですが、ぱっと見た感じこちらは伝記のようです。

カンパン夫人の回想録の該当箇所


カンパン夫人の回想録にアントワネットの髪が一夜にして白髪になったという出来事が書かれています。以下引用します。

"La première fois que je revis Sa Majesté, après la funeste catastrophe du voyage de Varennes, je la trouvai sortant de son lit; ses traits n'étaient pas extrêmement altérés; mais, après les premiers mots de bonté qu'elle m'adressa, elle ôta son bonnet, et me dit de voir l'effet que la douleur avait produit sur ses cheveux. En une seule nuit, ils étaient devenus blancs comme ceux d'une femme de soixante-dix ans. Je ne peindrai point ici les sentimens qui déchirèrent mon cœur. Il serait trop peu convenable de parler de mes peines, quand je retrace une si grande infortune. Sa Majesté me fit voir une bague qu'elle venait de faire monter pour la princesse de Lamballe c'était une gerbe de ses cheveux blancs avec cette inscription: hlandiis parle malheur. A l'époque de l'acceptation de la constitution, la princesse voulut rentrer en France. La reine, qui ne croyait nullement au retour de la tranquillité, s'y opposa; mais l'attachement que lui avait voué madame de Lamballe lui fit venir chercher la mort."

自分で訳します:

ヴァレンヌへの逃避行が悲劇に終わって初めて女王陛下に再会したとき、王妃はベッドから起き上がられるところでした。お顔には大きな変化は見られませんでしたが、私を気遣う言葉をかけてくださった後、頭のお召し物をお取りになって、苦痛が陛下の髪に及ぼした影響を見てほしいと私に仰りました。一言でいうと、陛下の髪は一夜にして70代の女性のように白くなっていたのです。 そのときのどれほどの感情が私の心を引き裂いたか、とても表すことはできません。このようなありあまる不幸を追憶するとき、私個人の苦痛に関して話すのも不適切です。陛下はランバル公妃のためにつくらせた指輪を見せてくださいました。指輪の中には王妃の白くなった髪束が入っており、「不幸によって白化した」と刻印されていました。憲法承認のとき。ランバル公妃はフランスに戻ることを望んでいたのですが、最早平和が戻ることはないと考えていた王妃はそれに反対していました。結果的には、ランバル公妃の王妃に対する親愛の情が、ランバル公妃の死をもたらすことになりました。

この証言が真実であるとするならば、アントワネットの髪が白くなったのはヴァレンヌ逃亡事件直後だということになります。ヴァレンヌ逃亡事件で王一家が逮捕されたのが1791年6月21日。アントワネットが処刑されたのが1793年10月16日ですので、髪が白くなったのは処刑の前夜ではなく、なんと2年も前のこと、まだ国王一家がチュイルリー宮殿にいてタンプル塔に移送される前ということになります。
私は原書で読んだのですが、カンパン夫人は二回も「アントワネットの髪はヴァレンヌからパリに引き戻される際に完全に白くなった」と書いています。

ここに出てくるランバル公妃というのはアントワネットの親友だった人です。この人は9月虐殺というフランスが外国勢力に攻撃されているのは反革命派が内通しているからだと思い込んで激高した民衆が、フランスの刑務所を襲い、収監されていた人々を次々に虐殺するという事件が起きた際にリンチされて殺害されてしまいました。頭を切断され、槍の上に刺されるというかなりむごい死に方をしています。民衆は槍の上の切断された頭部をタンプル塔のアントワネットに見せたという話もありますが、これは真偽がわかりません。
実はここに出てくる指輪というのは現存していて、パリのカルナヴァレ美術館に収蔵されています。それがこちらです。

キャプションによるとアントワネットとランバル公妃ふたりの髪が中に入っているそうです。肝心の色は・・・ガラスの中に入っているせいで正直よくわかりません。白というよりはブロンドっぽく見えます。

いずれにせよ、このカンパン夫人の証言の中では、アントワネットは自ら頭のお召し物をとって、ほら見てよとカンパン夫人に言っているので、自分の髪が白くなったことに自覚的だったことが伺えます。カンパン夫人の回想録を読むとアントワネットはよくしくしく泣いているので、ストレスも相当なものだったと思います。

ロザリー・ラモルリエールの証言


しかしながらカンパン夫人の証言と矛盾する証言があります。この後チュイルルー宮殿が革命派に襲撃され、虐殺が起こり、アントワネットはルイ16世と子供たちと共にタンプル塔という元修道院だった塔に収容されます。カンパン夫人はチュイルリー宮殿襲撃の後、国王一家と引き離され、その後二度と会っていません。本人は国王一家と共にタンプル塔への幽閉を希望していますが却下されたためです。

アントワネットは1793年8月1日から2日にかけての夜中にタンプル塔からコンシェルジュリーに移送されています。ルイ16世はその数か月前にギロチンにかけられています。タンプル塔は刑務所ではないのですが、コンシェルジュリーは牢獄で、処刑される人がギロチンにかけられる前に行くところでした。タンプル塔は現存しませんが、コンシェルジュリーは今もあります。
このときアントワネットが処刑されるまで、王妃の最後の付き人になったのがロザリー・ラモルリエール(Rosalie Lamorlière)という人です。この人は肖像画が一枚も残っていなくて、どんな容姿だったのかはわかっていません。

Rosalie Lamorlière le jour de l'exécution de Marie-Antoinette (détail du tableau de Tony Robert-Fleury Marie Antoinette le matin de son exécution, 1906).

この絵が残っていますが、これは1906年に描かれたものですので、後世の人の想像です。

ラモルリエールはアントワネットに最後に仕えた人として回想録を残しています。アントワネットは処刑の際、凛としていたことで知られていますが、処刑の前日には大粒の涙をこぼして、何も食べたがらなかったけどスープを持っていったら2,3口だけ飲んだとかけっこう生生しいことが書かれています。
この人の回想録もフランス国立図書館のデジタルアーカイブで全部無料で閲覧できます。
以下の箇所にアントワネットの髪色に関する記述が出てきます。

https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5698216z/f17.item.r=verole.zoom

自分で訳したのが以下の文章です。
テーブルには触れずに、彼女(アントワネット)はテーブルとベッドの間に座っていました。私は窓が完璧に照らすお顔の優美さに見とれていました。あるとき、4歩離れるとわからないくらいかすかな、小さな天然痘の痕がいくつかお顔にあることに気づきました。ルボーがいたとき、私がマダムのベッドを整え、椅子の上でドレスを畳んでいる間、マダムは私たちの前で毎日髪を整えていました。そのとき、両方のこめかみのあたりに髪が白くなっている箇所があるのに気づきました。しかし白髪は前髪や他の部分にはありません。陛下は私に白髪は10月6日の動乱のせいだと仰りました。」

カンパン夫人は必ずアントワネットのことをSa Majesté(女王陛下)と呼ぶのに、ロザリーはMadame呼びなのがなんかおもしろいなと思います。これは牢獄に入れられたから人々が王妃のことを尊敬しなくなったからなのかはわかりません。Sa Majesté呼びの箇所もあるし。ただこのときすでに王政は廃止されているので、アントワネットは王妃扱いではなく、Veuve Capet(カペー未亡人)と呼ばれています。カペーというのは夫のルイ16世がカペー一族の王だからです。

10月6日の動乱とは何のことでしょうか?おそらく1789年10月6日のことでしょう。

チュイルリー宮殿はパリにあります。今は宮殿は焼失して跡形もありませんが、大きい公園はまだ残っています。1789年、王一家はヴェルサイユにいました。この日、パリの飢えた民衆(特に女性)がパンを求めて、ヴェルサイユ宮殿に侵入し、宮殿の前で「パリへ!パリへ!」と大合唱する出来事がありました。事態の収拾がつかなくなったルイ16世と王太子を抱いたアントワネットがバルコンに出て、パリへ引っ越すことを約束しました。そうして、チュイルリーに引っ越すことになったわけですが、このときチュイルリー宮殿は何十年にもわたって放置されていて、中は黴臭く、浮浪者が住み着いたりして、大急ぎで家具を運び込んだという話が残っています。

ヴェルサイユにいた国王一家をパリに連れてきたい民衆の心理は、現代日本人にはわかりにくいかもしれません。これはこっちはパリで食べ物もなくて苦しんでいるのに、なぜおまえら王族はヴェルサイユの豪華絢爛な宮殿で楽しく暮らしてるんだ、パリに来てどうにかしろというようなことだったのでしょう。そもそもなぜフランスの国王一家がパリではなくヴェルサイユで暮らしているのかというと、それは話が長くなるので割愛します。

ヴァレンヌ逃亡事件は1791年で、10月6日の動乱は1789年なので、なんとそれより2年も前です。

カンパン夫人とロザリーの証言は互いに矛盾しているので、どちらが本当なのかはわかりません。

そういえば当時の肖像画を見ればいいじゃないという人もいるかもしれませんが、当時の肖像画は髪の色を知るのには使えません。なぜなら18世紀のフランスの宮廷ではかつらをかぶったり、髪粉と言って小麦粉とかでできた粉を振りかけてわざと白くしていたからです。

こういう髪を盛りに盛りまくった肖像画ですが、この髪型は「プフ」と言って中にクッションを入れ、ポマードで髪をかためて、髪粉をふりかけています。
現代の我々からすると奇抜な髪形ですが、実はアントワネットはこの髪型のことで母親にあたるマリー=テレジアに馬鹿なことやめろと手紙で説教されています(出典:Marie-Antoinette: correspondance secrète ente Marie-Thérèse et le cte de Mercy-Argenteau, publ. avec une intr. et des note s par A. d'Arneth et A. Geffroy,https://books.google.com/books?id=JnGzASR5cpEC&pg

本題とはずれますがおもしろいので載せます。
« De même, je ne peux m'empêcher de vous toucher un point que bien des gazettes me répètent trop souvent : c'est la parure dont vous vous servez ; on la dit depuis de la racine des cheveux 36 pouces de haut, et avec tant de plumes et de rubans qui relèvent tout cela ! Vous savez que j'étais toujours d'opinion de suivre les modes modérément, mais de ne jamais les outrer. Une jeune et jolie reine, pleine d'agréments, n'a pas besoin de toutes ces folies ; au contraire, la simplicité de la parure fait mieux paraître, et est plus adaptable au rang de reine. Celle-ci doit donner le ton, et tout le monde s'empressera de cœur à suivre même vos petits travers »

「同様に、新聞が私に繰り返し伝えるある点についてお話をしなくてはなりません。それはあなたの身なりについてです。髪の根本から全長36インチも高さがあって、やら羽根やらリボンやらで盛り上げているようですね!私もファッションに関しては適度に流行を追いかけてきましたが、こんな風にやりすぎたことは一度だってありません。若く美しく権威に満ち溢れた王妃にはこのような狂気は必要ありません。反対にシンプルな装飾のほうが見栄えが良いでしょうし、王妃たる者にふさわしいのです。それが調和を与え、皆があなたのちょっとした欠点でも真似したいと心から思うようになるでしょう」

頭に船とか乗っけてたらね・・・。これって日本のギャル文化の盛りとかと似たような感じなのかな?

医学的には髪が一夜で白くなるのはありえるのか?

冒頭で引用したLe Mondeが「A la recherche du syndrome de Marie-Antoinette(マリー=アントワネット症候群を求めて)」というタイトルで記事を書いていますが、結論から言うと、「懐疑的」だそうです。つまり、科学的には考えにくく、もともと髪を染めていた色素が落ちたというのが定説らしいです。でも当時って髪の染料あったのかな?髪粉とか使ってるくらいだから染料はなさそうですが、私にはわかりません。

マリー=アントワネットの髪色に関する証言はもう一つあって、1786年、アントワネットが次女ソフィーを妊娠していた際、謁見したEsterházy伯爵という人が妻にあててこう手紙を書いています。


elle a fait couper ses cheveux et ôté la poudre jusqu'à ses couches. J'ai été fort étonné de lui voir beaucoup de cheveux blancs ; elle en a plus que moi.
彼女は散髪をして髪粉を落としました。すると、たくさんの白髪があって大層驚きました。私よりたくさん白髪がありました。

アントワネットは当時30歳です。でもこれはこれでロザリーの「白髪はこめかみにしかない。」という証言と矛盾するんですよね。

じゃあ実物を見てしまえばいい

アントワネットは遺髪がいくつか残っていて博物館に所蔵されていたり、たまにオークションに出されてます。
由緒正しき大英博物館に所蔵されているアントワネットの遺髪がこちらです。


学芸員のコメントによるとヴァレンヌ逃亡事件の前のものじゃないかとのことです。ただ、「もしこれがアントワネットの髪であるとするならば」とかなんか言葉濁してない?カンパン夫人の発言引用してるし、白くないからヴァレンヌ逃亡事件前と言っている風にもとれるように思えるのですが・・・。
いずれにせよ、この髪は間違いなくブロンドですね。

Curator's comments

Text from the catalogue of the Hull Grundy Gift (Gere et al 1984) no. 579:
If this blonde lock of hair is indeed that of Marie Antoinette it must have been presented before the abortive flight to Varennes in 1791, when the King and Queen tried to escape from France. Marie Antoinette's hair went white overnight, and on her return to Paris she presented a ring to the Princesse de Lamballe containing a lock of her hair which was inscribed 'Blanchis par la douleur (whitened by sorrow; see Campan 1833). The ring is now in the Musée Carnavalet, Paris. (C.Gere)

でもほかにも遺髪はあります。

2013年に競売にかけられて8750ユーロで競り落とされた(意外と安い)遺髪です。これもヴァレンヌ逃亡事件の前らしいです。これも明らかにブロンドですね。

結論

さて、結局マリー=アントワネットの髪は一夜にして白くなったのか?
私としては医学的に可能性はとても低いということと、証言がカンパン夫人の回想録しかないのでいまいち信憑性に欠けると思います。当時チュイルリー宮殿にはたくさんの人が出入りしていたので、いきなり女王の髪が真っ白になったら他にも証言する人がいると思うのですが・・・。一夜にして白髪になってその後ブロンドに戻ったとすれば矛盾はないですがさすがに無理があります。
現存する遺髪はブロンドですし、ロザリーの「こめかみあたりの髪が白髪になってるだけ」のほうが信憑性が高いと思います。
ただいずれにせよ、「処刑の恐怖で白くなった」というのは間違いです。当時の記録を読むとマリー=アントワネットもルイ16世もかなり早い段階でもう王家にとって希望はないと感づいているのがわかるので、覚悟はできていて、処刑の恐怖で白髪になるということはないと思います。



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