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色んな感覚がなくなる

ような気がする。
狭い家の中で2か月以上ずっと家族と一緒にいる。
それぞれ別々のことをしていても、同じ空間にいる。

それが普通というか、当たり前な感覚というのは、理想論なのかもしれない。
今の私はとにかく個室に閉じこもりたいし、それが出来なくともせめて壁のような1枚の隔たりを欲していたりもする。

 私の幼少期はほとんどどこかに預けられているか、一人で留守番しているかのどちらかだった。
誰かと一緒にいるというのは大変気を遣う・粗相のない立ち居振る舞いを自分に強制させる息苦しさしか感じられなかったし、一人のほうはさみしさもあったが、気楽ではあった。

そんな境遇が自分の人格を形成するにあたっての根底にあるからか、どちらかというと他者からは異物扱いもしくは孤独のほうが慣れているわけだ。

それが家族を持つようになり、「あたりまえのようにそこに誰かがいる」という幼少期の頃の自分が憧れてやまなかったものを手にし、それを「当然のように」維持していた。
そういうつもりだったしこれからも変わらないつもりではある。

 ここにきてなぜ突然に身の上話を持ち出したかといえば、「ふつう」なごく一般的な家庭なんておそらく存在しないだろうし、それぞれに何がしかの闇はかかえていると思う。

だから、あなたの方が恵まれている・私の方が不幸だ、なんて人の人生を比較する文脈に持ち込むのは不毛でしかない。そういう野暮なことに私は関わらないようにしている。

 私は私の生い立ちの立場でものごとを見る。そこで思ったことをどう書こうが、それはそれなりに真実ってやつで、誰かに何かを言われる筋合いなどないのだ。

 という長い前置きはさておき、一番最初になくなったのは「曜日感覚」である。
水曜日と木曜日あたりが一番あやしい笑

最近は新たな日課として毎朝instagramに今日の曜日を書いてUPするということをしている。

今の私は、SNSで気軽に自分の思っていることを書ける気分にはとてもなれなくて、「画像だけ」を投稿できるinstagramはやはり私の心を救うところがある。


 何故気軽に考えていることが書けないのかというと第一に怒っているからだ。
もちろん今回の件も災害なので、罪を憎んで人を憎まず、というのは大前提だ。
でも、あまりに大人は子どもの事を考えていない。
これは学校の予算を減らし続け、そこで働いている人たちを疲弊させ続けていた結果として如実に表れていると思う。

 我が家には3年生の子どもがいる。
ちょうどさきほど回顧した自分の子どものころとほぼ同い年だ。
もし今回のことが自分のあの年齢で起きていたとしたら、どうなっていたんだろうかと考える。あの時の自分だったら大人にどんなことをして欲しかったのだろう。

とりあえずは毎日3食の食事の用意、家庭学習のサポートなどやるべきことはたくさんある。
親なので、粛々と執り行うまでである。

 勉強なんて、どこでもできる。それは私自身身をもって感じていることだし、今はそれをやるしかないのは分かっている。

だからこそ、公共の場で学ぶことの相対的な価値が上がっているのだ。

ここを大人は忘れてはいけないと思っている。
この感覚は絶対に麻痺させたくないのだ。

自分への戒めとして、

また、この騒動で忘れてしまわないように、ここに残しておきたいと思った近頃考えていることのひとつ。




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aura
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