ロックとソウルの歴史⑮「ドック・オブ・ザ・ベイ」
アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーはウィルソン・ピケットをスタックス・レコードに連れて行きます。1965年に録音された「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」は全米チャートでは21位だったもののリズム&ブルース・チャート1位になります。スタックス・レコードとうまくいかなくなったウィルソン・ピケットはアラバマ州マッスルショールズのフェイムスタジオへと行きます。ここで録音した「ダンス天国」は1966年に全米6位になりヒットします。
マッスルショールズのフェイム・スタジオは白人のリック・ホールが設立しました。「ダンス天国」は白人のスタジオ・ミュージシャンが演奏していました。マッスルショールズは、白人至上主義団体KKKの活動拠点でもあるほど黒人差別が激しかった街です。
ジェリー・ウェクスラーはウィルソン・ピケットに続きアレサ・フランクリンを連れて行きます。1967年にマッスルショールズで録音された「アイ・ネバー・ラブド・マン」は全米9位になりました。1967年のアレサ・フランクリンは「リスペクト」を全米1位にして「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」を全米4位、「ナチュラル・ウーマン」が全米8位、「チェイン・オブ・フールズ」を全米2位と次々にベスト10ヒットを出しソウルの女王と呼ばれました。
アトランティック・レコードは白人のバンドのヤング・ラスカルズと契約して、1966年に「グッド・ラヴィン」を全米1位のヒットにさせます。B面はウィルソン・ピケットの「ムスタング・サリー」のカバーでした。1967年には「グルーヴィン」を全米1位にします。この曲はブッカーT&MG’sやアレサ・フランクリンにもカバーされました。1968年にヤング・ラスカルズからラスカルズと改名しても「自由への讃歌」で全米1位になっています。ヤング・ラスカルズのように白人でも黒人のような音楽はブルー・アイド・ソウルと呼ばれました。
1965年にアトランティックと契約したサム&デイブは、異例の措置としてスタックスに連れて来られました。アイザック・ヘイズとデビッド・ポーターの作曲チームのもと1966年に「ホールド・オン・アイム・カミン」をリズム&ブルース・チャート1位にします。1968年には「ソウル・マン」で全米2位になります。
オーティス・レディングは1967年にモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演し黒人と白人の両方の人気を博し始めていました。しかし1967年「ドック・オブ・ザ・ベイ」を録音して3日後の12月10日に飛行機事故によって26歳の若さで死んでしまいます。
オーティスはマネージャーのフィル・ウォルデン、スタックスの社長ジム・スチュワート、共同作曲者のスティーブ・クロッパーと周りに普通に白人がいました。そういう意味で黒人と白人の人種統合の象徴的なソウル・シンガーでした。「ドック・オブ・ザ・ベイ」は1968年初頭に全米1位、年間でも4位の大ヒットになります。その年の4月にキング牧師が因縁にもメンフィスで射殺されました。キング牧師の死は130の都市で暴動を引き起こし、死者46人負傷者3500人逮捕者20000人を出しました。
スタックスレコードは1968年5月、配給元であるアトランティック・レコードを離れ大手資本に身売りして新体制になります。サム&デイブの作曲家だったアイザック・ヘイズがソロでレコードを出します。1969年の『ホット・バタード・ソウル』は全米8位、年間49位、1970年の年間36位に入るロングセラーヒットになりました。A面に12分の曲、B面に18分の曲を含む4曲入りのアルバムです。12分の「ウォーク・オン・バイ」は4分半にまとめられシングルになり全米30位になりました。
アイザック・ヘイズはシングルではなくアルバムが売れました。ロックファンがアイザック・ヘイズのアルバムを率先して買うわけはないので、黒人の間でもシングルよりアルバムが聴かれるようになっていったのでしょう。シングル中心のリズム&ブルースの時代から、アルバム中心のソウルの時代へと徐々に変わっていきます。
1969年にブッカーTはカリフォルニア州に引越し、スティーブ・クロッパーも1970年にはスタックスを離れていきました。オーティスのマネージャーだったフィル・ウォルデンはカプリコーンレーベルを立ち上げアトランティックから配給、ウィルソン・ピケットやアレサ・フランクリンのレコーディングでギターを弾いていたデュアン・オールマンを中心にしたオールマン・ブラザーズ・バンドを手掛ける様になります。
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