![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/70545015/rectangle_large_type_2_c948a9d7dd152b6e6bbc1977a2dfc342.jpg?width=1200)
ロックとソウルの歴史⑨「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」
レイ・チャールズはリズム&ブルース・チャートではトップ10ヒットを連発していましたが、ポップ・チャートではなかなかヒットが出ませんでした。1959年にようやく「ホワッド・アイ・セイ」が全米6位になり白人の間でも人気になります。
このヒットを足掛かりに1959年の終わり、アトランティック・レコードからメジャーのレコード会社のABCパラマウントに移籍します。1960年に「我が心のジョージア」、1961年に「旅立てジャック」、1962年に「愛さずにはいられない」と全米1位を連発するようになります。スタンダード・ナンバーの「我が心のジョージア」、カントリー・ソングの「愛さずにはいられない」とソウルにこだわらず幅広く歌い、黒人から白人まで多くの聴衆に愛されるポピュラー歌手になりました。
1960年に陸軍を除隊したエルヴィス・プレスリーもレイ・チャールズと同じようにロックンロールにこだわらないポピュラー歌手になっていきます。1960年にイタリアのカンツォーネの「オー・ソレ・ミオ」に英語の歌詞をつけた「イッツ・ナウ・オア・ネバー」が全米1位になりました。1961年にも同じようにカンツォーネの「帰れソレント」に英語の歌詞をのせた「サレンダー」が全米1位になっています。
サム・クックは1960年にエルヴィス・プレスリーのいるメジャーのレコード会社のRCAレコードと契約して、同年に「チェイン・ギャング」を全米2位にしました。
サム・クックやレイ・チャールズがまだまだ白人向けなアレンジで成功を手にする中、ジェームス・ブラウンはあくまで黒人に向かって歌いかけていました。ジェームス・ブラウン自身は1960年のリズム&ブルース・チャート7位の「シンク」がソウルの出発点と言っています。ポップ・チャートでは33位とまだまだ白人には届いてはいません。
ジェームス・ブラウンは自費でライブを録音して、反対するレコード会社を説き伏せ1962年にアルバム『ライブ・アット・ジ・アポロ』を出しました。ビルボードのアルバム・チャートで全米2位のヒット、1年3ヶ月の間チャートにとどまり白人の間にも徐々に聴かれるようになっていきます。
リズム&ブルースからソウルに発展させたたオリジネイターとしてあげられるのはレイ・チャールズ、サム・クック、ジェームス・ブラウンですが、その3人と同じように人気だったのがジャッキー・ウィルソンです。1959年に「ロンリー・ティアドロップス」を全米7位にしてヒットを出していましたがその後のソウルの歴史ではあまり語られません。
ブラック・エルヴィスと言われていたジャッキー・ウィルソンはサム・クックにも人気では負けていませんでした。ミスター・エキサイトメントとも呼ばれていたジャッキー・ウィルソンはミスター・ダイナマイトのジェームス・ブラウンのダンスにも引けをとりませんでした。しかし現在ではサム・クック、ジェームス・ブラウン、レイ・チャールズに比べると知名度は落ちます。3人が自分で作曲していたのに対して曲を作らなかったからでしょうか。
ジャッキー・ウィルソンの1950年代のヒット曲を作っていたのがベリー・ゴーディでした。ベリー・ゴーディは曲がヒットしてるのにもかかわらず、入ってくる金がわずかなことに不満を抱き自分でレコード会社を作ることにしました。これがデトロイトで設立されるモータウン・レコードです。