とりとめのない日々を綴る DAY7~ひとりで電車に乗った日のこと~
ひとりで乗る電車と感情の色
久々にひとりで電車に乗って出かけることになった。
親友に会いに県をまたいで移動するためだ。
片道約3時間半。そのうち3分の2が各駅停車。
長いなぁ、でもせっかくだからその時間に読める本を買おう。
小説は、人の気配を察知すると意識が拡散して物語が頭に入ってこなくなるから、日常を軽やかに描くエッセイがいい。
事前にAmazonでくどうれいんの「うたうおばけ」を買っておく。
(また感想を別記事で書きたいな)
はやく親友と合流して遊びたいので、朝一の電車に乗っていく。
起床4時50分。会社員時代と同じ起床時間。
早起きする用事が久しぶり過ぎて若干緊張したのか寝入りがいつもより悪くて目をバッテンにしながら準備をした。
始発駅まで家族に送ってもらう。
10月の朝はもう寒い。
少し冬を感じさせる。
日中との気温差がわからなくて、薄いセーターを着てきたのでちょうどいい。
まばらに制服姿の若者たち。
そうだった、今日は平日だったなあとぼんやりホームから見える景色に顔を向けていた。天気が良くって、うれしい。
電車に乗るなんていつぶりだろう?って考えて、そうだった、5月に親友と初USJに行くために二人で一緒に乗ったんだと思い出す。
さほど昔でもない。
でも懐かしいと思うのはなんでだろうと思ったら、電車にひとりで乗るという行為が本当に久しぶりだったから。
どれくらいぶり? めったにない出張の際は、同じ事務の先輩と一緒に電車に乗っていってたし。
だったら、大学生のころか。ああ、なんか懐かしい感情に寂しい色があるのはそのせいだったか、と気づいた。
純粋に電車の時間をたのしむ
電車に乗ってる時間はなんとなく、あまり明るい感情や感覚が私にはない。
過去がそうだったということだと思う。
今は、何が起こるのか不安にもならず緊張もせず、ほどよくリラックスして
この時間を満喫しようと思えてるのに少しばかり驚くのと同時に、やっぱり
うれしい。
始発駅なので乗客はまばら。平気で座れる。田舎の特権だろう。
数駅進むと学生の乗客が増える。でも私は降りるのは最終駅だ。
彼らとは必ず途中で別れる。
人の密度が一瞬で増えるのは、意味もなく肩身が狭いというか空気が吸いにくくなる。
学生のころは、このパーソナルスペースが一気に狭くなる感じ、憂鬱だったな、と。
いや、今も割と憂鬱だけど。
ただ、当時のような切迫感は薄まったかもしれない。
何より、当時のわたしは、憂鬱に感じる自分が情けないと思っていたというか。必死に憂鬱であることを隠すために大量のエネルギーを消費していた。
不安に思いたくない、これくらいで。って思っていたように感じる。
言語化までしてなくても、あ~~~いやだな~~~って思っていた。
なんで全部怖いんだろう、全部無感覚になって平気になりたいなぁって。
読んでいるエッセイは、著者の学生時代の面白い友人たちとのエピソードが多く、目の前にはリアルな学生たち。
著者が、「書くために学校に行って、書くためにゆっくり帰っていた」とエッセイの中で語っている。
そういう視点であったなら、私はもっと義務的な学校生活を過ごさなかったかもしれないなぁ。
車窓から見える風景は、緑、緑、たまに紅、黄色、緑だ。天気が良くて青空は澄み切っている。日差しが柔らかい。
単純に、いいなぁ、いいことだなぁと目に映るのどかさを享受した。
この感覚は、今の自分だから得られるものだし、これからもこの感覚を持てるように意識すればしあわせから遠ざかるということが少なくなるだろうと思った。
わかりやすくカテゴライズされていた時代の方が苦しかった
高校生、大学生、会社員。
何かしらに所属している時代に乗った電車って、いつも不安だった。
次の駅から乗ってくる人たちも、流れる風景も、ホームで待つ間に見える線路の先も全部憂鬱だった。
誰かに「今はどこに行ってるの?」って所属を聞かれるたびに眉を顰められそうにない、世の中としては「普通」なカテゴライズにはまっている時代、堅実で確実な正体であるはずなのに、ずっと「何も保障されていない自分」を感じていた。
『この先、どうなるんだろう、このままなんだろうか。
ずっと窮屈で、でもこれは「安心」で「安定」な状態らしい、じゃあこの不安や恐れはいつ解消されるんだろう。』
今なんて、無職だし、これからどうなるかなんて具体的に展望しようにもどう変化していくかなんて生きながら進めないと全然わかんないし、どう考えても会社員より「一般的」には「不安定」なのに。
今の方が、心が穏やかなのは、なんでなんだろう。
国家資格の受験が終わって、取り掛かるメインイベントがなくなってしまったけど、まだ私は生きている。
会社員時代、恐れと不安でどうなってしまうのか想像すらできなかった生活が1年以上続いている。
実家で暮らしているからこそ得られている安心に守られているのもあるかもしれないけども、今自分の中に浮かぶ海が荒れてもいないし、どんより曇ってもいない。
相変わらず曇りの日はもちろんある。
生理前だとか体質に左右される日は特に。
でも、何かに所属していたカテゴライズされた自分は、いつだって今の状態が続くことがとてつもない地獄だと常に感じてた。
それを真正面からのぞくと真っ暗な穴に落ちて、多分ひとりじゃもう這い上がってくるのも難しいことも。
今思えば、あるようでないような周囲の声を、あまりにも素直に聞きすぎていたし、自分の希望や感情に聞く耳持たなかったし、他人が描く「大人」であるということに無意味にこだわりすぎていたかもしれない。
くどうれいんさんのエッセイを読んで、そういえば私の周囲には自由な「ともだち」が結構いたなって思い出した。
自分はテストのたびにプレッシャーで吐き気と戦うようなメンタルだったのと反比例するように、彼女たちは自由に「自分」であったなぁ。
一応、その高校の進学クラスにいたけど、頻繁に1限、2限まで遅刻して、来たと思えば「朝起きたら、もう間に合わないと思って。でもおなかすいたしね、うどんを2玉ゆでて食べてきたよ」と語尾に音符を乗せてフラッと通学してきた子、ゲームのし過ぎで起きれなかったのでそのまま休んじゃった子(どうも新作が出るたびに休んでいたらしい)。
どの子に対しても自由でいいなぁと嫉妬や苛立ちもなく、ただただ面白いなぁとほほえましく見てたし、そういう行動を当時も慈しんで見ていたと思う。
くどうれいんさんも、よくさぼって河原で短歌を作ってたらしい。
自分はそれほどやりたいことや、我慢できないという熱がなかったと思ってたけど、そもそもどうなんだろうな。
それを持てる選択肢が自分にあると思えてなかったんだと思う。
どこかで「もし、この枠組みから漏れたらだれも助けてくれない」と学習しているところがあった。自分でも自分に呪いも重ねてかけ続けてしまっていたと思う。
今見ている風景や、起こしている行動にその先を考えない
突然に性格診断の話ですが、わたし、無職になってから何度かMBTI診断をやり直したら、会社員時代はINTJだったのに、INFJになってた。
INFJって、最近読んだnote記事で同じINFJの人が書いていたけど、将来のことばかり考えてしまうらしい。
なんだかわかるし、不安を無暗に増長させるのもここにあったんではないかと最近思う。
今現在見ている風景に、将来の不安ばかりを重ねるから、どの風景見ても「不安」「寂しさ」しかない。
そして、「こんなことしてる暇ではない」と現時点の自分を否定しがちになる。
天気が良い日はなんかラッキーな気になるし、気分も上がる、親友と話していると楽しい。
その瞬間のその感情に集中することを実は、自分に課していた旅行だった。
目の前の感情を満喫して、楽しいという感覚をちゃんと自覚して、電車の時間にいいイメージを積み上げようって。
あと、楽しいなら楽しいって、一緒に過ごしている相手にことばにして伝えること。
親友は楽しいと「あ~、楽しかった!」って言ってくれる。うれしいと「うれしい!」って言ってくれる、一緒に食べるご飯がおいしいと「おいしい!」って言ってくれる。
今までだったら、「そうだね」と返していたのにプラスして「そうだね、楽しいね」「うれしいね」「おいしいね」って伝えるようにした。
帰り路、特急から各駅停車を待つのに30分かかった。ホームでぼーっと立ちつくす。線路の先は真っ暗だけど、ところどころ設置された照明や信号の光が遠くに見える。
前だったら、きっとこうだったなと思う感情の色は今はない。習慣的に浮かんでいたけど、今は違う。旅行だしっていう言い訳で買った本、5冊分の重みが増えた荷物に肩と手が少し痛いけど、そんなことで憂鬱にならないくらいほんの少しの謎な達成感さえある。
ひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込んで電車を待つ。
なんだか、今回はアップデートした気がする。
そんな旅行だった。
また親友に会いに出かけよう。