見出し画像

長編小説 「扉」15


     宮城県警 一



  父の諦念

 朝から携帯が鳴っている。おそるおそる手に取ると理実からだった。
 間髪容れず、「お父さん、すぐにNHK点けてごらん」とだけ告げて切ってしまう。本当にせっかちな娘だ。点けてみると詐欺事件の特集をやっていた。
 騙される訳がないと高を括り、あっさりと骨の髄まで吸い尽くされ、あっけなく人生を失ってしまった自分の愚かさを直視することが出来ず、一瞬でテレビを消した。
 全てが変わってしまった。これが現実だとは今でも信じ難く、醒めない悪夢を見ているようで、自分の意思で物事を判断することが出来なくなってしまった。
 歩や理実が俺に対して苛立っているのは分かってはいるが、どうすることも出来ない。歩が俺に要求する内容は、ややこしくて混乱する。金融機関に電話をかけて融資の相談をしろと言われても、どれも上手くいかない。
 俺はこんなにも鈍い腑抜ふぬけだったのかと思うと、やる気も出ず諦めてしまう。結果、歩達にうとまれるという負のスパイラルに陥り、現実味のない暑過ぎる毎日をただ過ごしている。後悔や当惑、愚かさ、情けなさ、恥、全ての思考を排除する余り、呑気な脳天気ジジイだとさげすまれても、それで良いとさえ思う。
 既に歩が仕切り始めた俺の年金生活を、何も言わず、何も聞かず、何も考えず、ただ歩のやり方に従うだけだ。迂闊うかつに口や手を出せば、歩の苛立ちのアベレージは上昇し、それに伴い俺の思考は益々停止して言葉が出なくなる。俺にだって言い分は土砂崩れが起きるほど山積している。それでも何も言わず全てを歩に任せたのだ。

 白い画仙紙をにらみ、右手に力強く筆を握って何を書く? 無情に広がる紙の上に、宙に浮いて行き場を失った筆から、したたり落ちる血液のようにぼたぼたと墨が堕ちるばかりだ。俺の晩年もそのように行き場も失い、ぼたぼたと堕ちて行くのだろう。
 朱実を喪ってからというもの、素直に男やもめを受け入れ、不器用ながらも俺なりに上手く節度を持ちつつ、気ままに歳を重ねてきたつもりだった。元来気の合わなかった母親っ娘の理実とも、一緒に買い物や食事をしたり、芸術の話を熱くするようにすらなっていた。
 俺の古稀には地元の画廊にて、書と油画の父娘展を果たし、予想を上回る盛況に終わった。理実は父娘喧嘩展なのだと吹聴していたが、俺は本当に嬉しかったのだ。楽しかったのだ。「久し振りに本格的に制作出来る機会をくれて有難う」と、しおらしいことを言った理実が、「息苦しい程の色まみれの私の作品が、お父さんの墨一色の一文字に迫力負けしてる」と、頬を紅潮させ言った言葉を俺は大切にしていた。あの強面の嵐山師匠から複雑な笑みを引き出した展覧となったのだ。
 師匠存命中には、師匠から尻を持ち上げられたり足を引っ張られたりしながらも、海外での書展をいくつも経験した。先に逝った朱実に恥じない人生を、俺は過ごしていたはずだった。
 ふと、消したテレビの暗い液晶画面に、不気味にしおれた老人がうっすらと映っている。急激に年老いてしまった自分の顔がそこにあった。



 ヴー、ヴー、ヴー、くぐもった音。詐欺グループの餌食となった携帯番号を持つそれが震える。発信番号は未知のものである。私の穴の空いた心臓が高鳴った。とうとう来た。いきなりは応答せずに様子を伺う。数時間後に再度、夕方に三度目の電話。詐欺にしては妙に律義な気もする。深呼吸をしてく雑音の不整脈を整え、何気なさを装い応答ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「あー、失礼ですが、これは中嶋道央さんの携帯でよろしいでしょうかぁ」
 私の不規則な鼓動は更に速まる。電話の向こうの男のイントネーションが気になる。
「あー、こちらぁ、宮城県警仙台中央署なんだけどぉ、道央さん御本人でしょうか」
「あ、いえ、中嶋道央の携帯ですが、私は道央の息子です」
 警察を名乗る詐欺が頭を掠めたが、要するに騙されなければ良いのだ。
「あー息子さん。失礼だけど、道央さん詐欺被害に遭ってませんか」
「は……い確かに……ええと」
「実はですねぇ、こちらの仙台中央署で追っていた詐欺グループのメンバーを捕まえたんですがね、押収物の携帯から中嶋道央さんとの通信履歴が出てきたわけですよ。で、これは被害を受けたのではないかと思って確かめたかったんですよ」
 驚いた。父の携帯番号を生かしておいたことが流れを大きく変えた。猜疑心から完全に解放された訳ではないが話に矛盾はない。明らかに警察からの電話だ。しかし何故遠く離れた宮城県警なのか。
 ここ数カ月に渡り、宮城県内での詐欺事件が多発して被害者や被害額が膨らみ、仙台中央署に特別捜査本部が設置され、それら一連の事件を同一グループの犯行として虎視眈々と追っていた。この詐欺グループは広範囲に及んで犯行を続け、ここへ来て、宮城県警が群馬県内で埼玉と千葉出身の下っ端二名を捕まえたという。
 オイシイ老人達の名簿や、騙し取った現金の一部、複数の携帯などが押収された。我が父の氏名と携帯番号が記録された携帯には、父との通話履歴が残されていたという。被害者としての父がこれで表面化した。
 事件発覚から一ヶ月半余り、遂に状況は動き始めた。喜ぶことは出来ないが、起訴するために必要であろう証拠品は、未だ我が家に残っており、警察に協力することが出来る。三日後には事情聴取のため、宮城から神奈川の我が家まで警察が訪れることになった。姉に連絡だ。
 そういえば当初通報した地元警察からは、あれから何の連絡もない。一体どうなっているのだ。被害届けすら出させてもらっていない事実に気付くと、無性に腹立たしくなった。

 突然の東北訛りの電話に意表を突かれた後、父を伴い嵐山邸に出向いた。嵐山氏から「家は取り戻せたのか心配している」と、電話を貰ってしまったのだ。
 年金担保の融資額で不動産の違約金は支払えそうだが、氏への返済は未だままならないと伝えた。氏が分割返済を否とするため、まとまった額面を用意しなくてはならないから尚更である。
 被疑者二名確保の情報を伝えると、被害額を取り戻すことが出来るかという話題になった。
 突如、隣で死んだ狸に扮していると思っていた父が、自分が被害者であるという事実を自信を持って語り出した。つい先程まで騙されていること自体が夢うつつであったのに、警察によって被害者として表面化した途端、被害者認識がムクムクと膨れて来て、あろうことか自宅ではなく、ここ嵐山邸で勃発してしまったのだ。まさに空気が読めないとはこのことである。
「いい加減にしてくれよ。被害者なのは分かっていることだし、今はその先の話をしているんだ。聞いてないのかよ」
 さすがにこの場で叱責してしまった。嵐山氏は苦笑いの後、
「被害額そのものは難しいだろうが、今後の行動を弁護士に相談した方がいいよ」と言い、改めて父の方を向き、
「そもそも私が融資したのは、中嶋さん、あなたにです。これだけの額をお貸ししたのは、長年に渡り義父の右腕として嵐山書道会を盛り上げてくれた中心人物であり、その姿を高く評価していたからです。信用に値する人間だったからです。あなたは七月末には必ず返すと言いました。今こうしてあなたのために、息子さんが頭を下げていますが、これは中嶋さんと私の間の約束だと思っているのですが」
 非常に手強い嵐山氏の発言であった。当然の言い分であり道理だ。被害者意識表面化で膨らみかけていた父の身体は再びしぼみ、やがてフリーズドライ化していった。
  嵐山氏の進言通り、弁護士への相談価値は大いにある。素人が立ち向かえる問題ではない。いずれにしても三日後には宮城から刑事がやって来る。その報告を踏まえて坂上弁護士に、今後の対策を切り出してみよう。上級・・弁護士はコストがかかるのだ。
 PCを拝借するため姉を訪れると、タイミング良く地元弁護士の情報があった。上級でなくてもいい、地元の良い弁護士を見つけようとしていた私は、渡りに舟と期待した。
 河原氏からの弁護士情報を姉が口真似る。
「地元の弁護士に相談してみたらどうだろう。坂上弁護士に依頼した件は不動産取り戻しについてのみ。その件が落着すれば成功報酬を別途支払う。新たに詐欺事件において民事裁判を起こすための依頼をすると、費用がかさむのは必須。文芸仲間の知り合いに、某政党の地元支部に常駐している弁護士がいる。そこで無料相談を受けたらどうだろう」
 検討してみる。        


つづく





連載中です

↓ ↓ ↓




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集