私の成長記録⑤小学校高学年〜参
さて、私は小学校6年になってからの事を書いていく事にしよう。低学年の頃を過ごした木造校舎2棟が解体され、瓦礫も撤去され、跡形もなくなった頃、新校舎の建設も行われており、私たちの1つ上の学年から新校舎で授業を受ける事になり、私たちの学年もこの学校での最後の年を新校舎で過ごす事になった。
新しい校舎は、なんと言っても新しい匂いがしており、とても新鮮な気持ちだったのを覚えている。6年になると、また担任の先生が変わり、20代後半の女の先生になった。
前の記事でも書いたが、この頃になると私以外の全員が家から私服の下に体操服上下を着て登校し、私だけが登校してから、下着姿になって体操服に着替え、帰りになるとまた同じようにして私服に着替えて、帰るのだった。私自身もそれがとても恥ずかしかったし、私の親しい友人からも家から着てきた方が楽でいいよと、言ってきてくれていたのだが、母親にそれを伝える事ができずにいた。
私は図画工作が得意で、ここで初めて書くが、3年生の時から連続して写生会で描いた絵が金賞に選ばれていて、みんなからも絵が得意な事は認識されていた。この6年の時も私の描いた絵は金賞に選ばれたのだった。だが依然として、体育と作文は苦手であった。他の教科の成績は、平均点より上くらいのレベルは小学校ではキープできていたようであった。
また音楽も、リコーダーを3年生から習うようになり、楽譜を読むのに小さい頃からピアノなどを習っている子達を除いては、音符の上などにカタカナで、ドレミを振っていたのだが、段々と読めるようになっていった。というのも、家に親が聞いていたであろうクラシックのカセットテープがあり、それをよく聞いていて、クラシック音楽に興味を持っていて、それを見た父が5年生頃、新聞の日曜版に広告で出ていたクラシック音楽のCDのセットを買ってくれたり、親が妹のために、中くらいのキーボードを買ったのだが、妹はあまりそれを使わず、むしろ私の方が気に入ってしまい、よく触っていたのだった。また同じ頃、父親がそのクラシックのCDを聞くためか忘れたが、私にCDラジカセを買ってくれたのも、影響したと思われる。
作文や創作ダンスなどの自己表現は依然として苦手だったが、6年の時のリコーダーのテストで、課題曲を暗譜でみんなの前で演奏して、先生からも素晴らしいねと言われたのを覚えている。
この頃になると冒険心が芽生えてきて、自転車でひとりで、結構遠くまで行くことが多くなってきていた。ただ、私の外でおしっこをしたい気持ちはこの頃もまだ続いていて、わざとトイレを我慢して、下校中に建物の裏とかでよくおしっこをしたりしていた。
ある日、下校中、私がおしっこをしようと思って建物の裏へ入っていく所を、少し後ろを歩いていた同じクラスの女子が見つけ、どうしたのかと後をつけられ、私のおしっこをしている様子を見られてしまった時があった。
この話は、この日、私は気が付かなかったのだが、後になって彼女から学校で会った時に言われ、すごく恥ずかしい気持ちになってしまったのを覚えている。しかも運が悪いと思ったのは、後ろ向きの所ではなく、私がおしっこをする様子を前から見たというのだ。彼女は、私のちんちん、ちんちんからおしっこが出る様子、おしっこが終わってちんちんを振ってしまう所まで見ていたそうで、すごく恥ずかしかった。
後は、家に同性の友達が遊びに来た時、お互いのちんちんを見せ合う時があった。その時は、お互いに触ったりして終わったのだが、その後、学校の休み時間の時、教室の机の陰で、同じ友達といる時、そういう話になって、周りでは他の子達が普通に遊んでいたが、立膝になってちんちんを一瞬だけ見せるということがあった。1番近くには女子が机に突っ伏してウトウトしているようだった。だが、彼女にまたちんちんを見られてしまうのだった。
6年になって少しした頃、私に好きな人ができた。幼稚園から低学年にかけて、そういう子がいた事は前の記事でも書いたが、その時とは違う初めて抱く感情だった。その子を見ていると自然に笑みが溢れ、ずっと見ていたい気持ちになった。家でも、使っていないノートなどにその子に対して思っている事を書いて、親に見つからないように机の奥の方に隠していたのだが、どうやら見られてしまったらしい。ある日の食事の席で母親に「〇〇ちゃんの事が好きになったのね」と言われると、そのノートを見られたのだと思い、やり場のない恥ずかしい気持ちに襲われるのだった。
この頃は、他のクラスメイト達も初恋の時期を迎えていたようで、同性の間で、誰は誰が好きかという話がよくされていたようで、ほとんどみんな同じように、からかわれていたようだった。
修学旅行は1泊で、県内の南の方にある海が見える場所に行った。泊まったのは前もって決めた班ごとで、同性の4~5人部屋だったと記憶している。お風呂は大浴場で、私のちんちんはもう結構毛が生えていたので、タオルで隠していたが、他の毛の生えていないクラスメイト達は隠していなかったが、自分もそうだったのだと思うのだが、みんな皮は被ったままだが大きくなっていたのだった。
卒業式は、1人ずつ名前を呼ばれ、みんなに聞こえるように大きい声で返事をするように言われていた。私は、尚も場面緘黙が消えておらず、卒業式で大きい声で返事をする事ができるか不安だった。妹も4年生になり、私の返事がもしよく聞こえなかったら、風当たりが強くなったりしないかどうかなどの心配もあった。本番前に全校生で予行演習が行われるのだが、そこで私は、みんなに聞こえるような声を出すことができず、クラスメイトはフォローしてくれたが、妹のクラスメイト達が騒いだようで、妹から母親にその事が伝わってしまい、また私は家で辛く当たられるのであった。本番でも、同じように、声は出せなかったが、母親はその時はそれほど強くは言って来なくて、少しホッとしたのを覚えている。
私の母親は、要らなくなった物はとにかく捨ててしまう性格なので、小学校卒業と同時に私にとってとても大事な体操服を捨てられまいとして、タンスから持ち出し、自分の机に隠していた。だが、そんな事も虚しく、あっさりと見つかってしまって、いよいよ本当に捨てられてしまったのだった。
卒業と同時に中学に通う準備が始まった。中学は、私の家からは歩いて通える場所にあったのだが、小学校よりは遠くにあった。また、中学になると、私たちの学校は男子は学生服、女子は紺色のワンピースで通学用、上履き、体育の時に履く靴など、指定されていた。もちろん体操服も変わった。女子はほとんど変わらなかったのだが、男子の短パンは、紺色の前チャックのないものになった。体操服の件だが、運良く入学前に、体操服の短パンは家から制服の下に履いていくものだという情報が親にも入り、ホッとしたのを覚えている。
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