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親戚紹介②母方の祖母

さて、今回は、母方の祖母について書いていこうと思う。

私の家庭環境があまりよくなくて、両親の馴れ初めなども何も知らないので、当然のように祖父母がどんな風に知り合ったなどという話は、本当に何も知らない。

ただ、母には東京の神田に親戚がいて、そこの叔父さんが私が幼少の頃に亡くなった時にお葬式に行ったのを覚えているが、どういう関係だったのかまでは知らされていなかった。もしかしたら、祖母の実家だったのかも…と今になって思う。

母が私が一人暮らしを始めた時に送ってもらった私が幼少の頃のアルバムに、祖母が幼い私を抱いている写真を見たことがある。

お盆や正月に、母に連れられて妹と3人で帰省した時には、本当にいろいろとお世話になったのだった。

祖父の家は建設会社をやっていて土地が広く、土佐犬や軍鶏や猫がいたのだが、土佐犬と軍鶏は祖父が、猫は祖母が餌やりなどの世話をしていたようで、よくねこがご飯を食べるところを見たりしていたのを覚えている。

母と帰省すると、2日くらい泊まるのが習慣になっていたのだが、寝る時間になると綺麗に私たちの寝るための布団が敷かれていたのだった。我が家では日曜日は遅くまで寝るという習慣があったので、祖父母の家に泊まった時も午前中の10時半頃まで寝ていたのを覚えている。母や妹はもっと早く起きていたようだが、いつも私だけがダラダラしていて、祖母が掃除機をかけに来るタイミングでようやく起きるという感じであった。

私たちがいつも寝る部屋には仏壇があって、先祖代々の方々の写真が飾られていたのだが、その方々がいつ頃のどのような繋がりだったのかまでは、よく知らない。だが、帰省の時に、母が実家にと買ったお土産なども1度仏壇に備えられ、お線香を焚くのが習慣となっていたのだった。

私の母は、母たちが幼い頃の話はあまりしなかったので、祖母が若い時の話も何も知らなかった。だが、とても私たちの事を気にかけてくれる人で、よく林檎やみかんやお菓子を一緒に食べようとか、好きなテレビ見ていいよと言ってきてくれたのだった。

お盆や正月となると、他の親戚も集まるのだが、みんな近くに住んでいたので、泊まるのは遠方から来た私たちだけだった。食事はいつも祖母が用意していたのだが、帰省時は作る量も増えるので、よく母が祖母の手伝いを率先してやっていた。

祖父母の家は平屋建てだが、瓦屋根の縁側のある5LDKのような感じだった。ちょうど母が長女で兄妹が5人いたのだが、どんな風に過ごしていたのだろう。

母屋だけでなく、離れのような所もあり、私たちが行っていた頃には既に使われていなかったのだが、古い薪を使って使う釜などが残っていて、そこに洗濯機などが置かれていて洗濯場として使っていたようであった。近くには井戸もあった。また違う所には小さなトイレもあって、ゴミなどを燃やすスペースなどもあった。

植木なども多く、小さい頃はよく蝉などを取ったり、セミのぬけがらなどを瓶に入れて持ち帰ったりもしていたし、井戸でスイカを冷やしたりしていた。

お正月には毎年、祖母が自家製のおせち料理を作ってくれて、どれもとても美味しく食べていたのを覚えている。私は特に伊達巻と栗きんとんが好きだったと記憶している。

母より少し年下の叔父が結婚して子供ができるとおもちゃなども買っていたようで、小学校3年くらいだった私はよくそのおもちゃで遊んでいたのだった。

お風呂は、脱衣場のある、ガスでお湯を沸かすタイプでお風呂自体は木でできていたと記憶している。

またお彼岸の時期には祖母はおはぎをたくさん作ってくれて、好んでよく食べていたのを覚えている。あずき餡だけでなく、きな粉をまぶしたものもあった。

私が幼少の頃はカラオケの機械もあって、お客さんが来た時などにカラオケ大会というか、そういう事もしていたようだ。また祖父が会社をやっていた事もあり、年末が近づくとカレンダーをいろいろな所から貰うようで、母から私が絵を描くのが好きだと聞いていたのもあってか、このカレンダーいらないから、裏に絵とか書いていいよと言ってくるのだった。

また祖母は家から少し離れた所に畑があり、そこでよくいろいろな野菜を育てていて、一緒に収穫をしに行ったものだ。トウモロコシやナスなカボチャなど、他にもいろいろと取ったり、これはまだ青いからまだ取らないでおこうとか話していたのを覚えている。

私が中学に上がると、家庭環境の事もあり、母や妹と別行動になり、祖父母の家には行かないようになった。だが、私がピアノを習っていた時、発表会の日にはるばる私の街まで見に来てくれたのだった。

それから、ずいぶんと長いこと祖父母の家には行かなくなった。母は頻繁に訪れていたようだが…。

祖父が他界して、10年近くが経った頃、私は何かに突き動かされるように、祖父母の家に一人で行ってみようと思い立ったのだった。この頃には、東京の地下鉄が延伸され、それまでは車で20分くらいかかる駅が最寄り駅だったのだが、その新しい駅で降りれば、歩いて30分くらいとなっているのだった。

私はスマホのグーグルマップで見ながら、祖父母の家に久しぶりに行ってみた。祖父が他界し、会社もなくなって、もう土佐犬も軍鶏も庭石や盆栽もなくて、ひっそりと静まり返っていた。

母から祖母と叔父が住んでいると聞いていたので、リビングの方にまわってみると、年老いた祖母がリクライニングの椅子に佇んでいたのだった。もう長いこと会っていなかったので、祖母は私が誰かもう既に分からなくなっていたようだが、近くにお茶を入れるポットがあって、私にお茶を入れてくれた。

そして、一緒に住んでいる叔父を呼んでくれて、私は叔父に挨拶をした。叔父もかなり年老いていたが、面影があったのですぐに分かったが、叔父もかなり久しぶりに会うので、私が分からなかったようだが、母の息子の〇〇だと言うと、よく来てくれたと行って、少しの間、話をして、祖母にも、母の息子の〇〇だと言ってくれたのだが、認知が進んでいて分からなかったようだ。私も直接、耳元で、孫の〇〇だよと言ったのだが、分からないようだった。

話が一段落すると叔父は祖父の墓に私を案内し、お線香をあげたのだった。

私はその当時、フルートをやっていて、私の事が分からなくても、子供の頃、祖母がよく歌ってくれた歌を聞かせたいと思い、その日から、しばらくしてから楽器を持って再び祖母の元に足を運んだのだった。その時は、叔父は外出していたようで、家にはいないようだったが、祖母はその時と同じように椅子に座っていたのだった。前の時と同様に私にお茶を出すとゆっくりしてってと言った。

また当時、祖母の家には猫が20匹くらいいて、猫屋敷のようになっていた。叔父がいない時、見ない顔が勝手に上がるのを見た猫たちが警戒したのかすごく威嚇してきたのを覚えている。

また不思議な声を聞いたような気がした。

祖母の他に誰もいないはずなのに、どこからともなく「誰かいるのか」と言われたような感じがしたのだった。今思えば、あれはもしかしたら祖父か、ご先祖さまの声だったのかも知れない。

私がフルートを取り出し、音楽を奏で始めると威嚇していた猫たちも急に安心したかのようにくつろぎ始める様子がわかった。

祖母は無反応だったが、帰る時に一声かけて、私は祖母の家を後にした。

そこから、しばらくして、母から夜中に連絡があり、今しがた息を引き取ったと知らされた。私は祖母にも、とても感謝しているが、この時はまだ母親とのしがらみなどをいろいろと抱えていて、祖母の通夜に顔を出さなかったのだった。

そして、またしばらくすると、今度は1人になった叔父が他界し、母からお香典を持たされて、また祖母の家に行った。そこにはもう猫たちの姿もなく、ただラジオの音が響いているだけで、その時は誰もいなかったが、私が帰省した時に寝ていた仏壇のある部屋に祭壇が築かれ、そこに祖母と叔父の写真が飾られていて、そこに私はひとり座って、少しの間、目を閉じ手を合わせたのだった。

おわり。
今日も読んでくださり、ありがとうございました。

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