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#2 東京ステーションホテルー待ち人

E氏はステーションホテルの丸の内南口側にあるラウンジを待ち合わせ場所に選んだ。このホテルのロイヤルミルクティーが一番美味しいのですよ。いつもそんなことを言いながら上品なティーセットに淹れられた熱いミルクティーを豪快に飲んでいる。同じものを、と私もウエイターにお願いして、カップに注がれた乳白色を口に運ぶとウイスキーのような香りが僅かに広がる。こどもみたいに砂糖をたくさん入れて飲んでみたい願望にかられた。
E氏と私は商談のために月に一度このラウンジに訪れる。それは決まって14時くらいのことだった。特に深い意味はないが、午後の紅茶は15時からという古き良き伝統のような心性が、私にも彼にもあって、おそらく1時間ばかりの商談のあとに、なんということはない世間話をしながら残りの1時間ほどをここで過ごすのが密かな楽しみとなっていたのだ。
今日はこちらにお泊まりに?とE氏がなんとはなしに尋ねる。ええ…明日の早朝の新幹線で名古屋に行かなければならないのですよ。
私は昨晩急遽このホテルの部屋を予約したのだった。別に朝早く家を出れば新幹線に乗ることはできる。しかしなんとなくここから旅を始めたいと思ったのだった。

1.  ドームサイドコンフォートキング

E氏と別れて、16時前にチェックインを済ませた。真っ直ぐな瞳が印象的な若いベルガールが長い廊下をエスコートしてくれた。今日の部屋は丸の内北口のドームサイドコンフォートキング。心地よい部屋の狭さと天井の高さが魅力的な部屋だ。ホテル全体に共通するクラシカルな雰囲気が素晴らしいのは言うまでもない。
鍵はこちらに置いておきます…ベルガールはあたたかな笑顔を見せて、部屋を出ていった。私は溜め込んでいた緊張を緩めるようにため息をついた。

この部屋からの眺めは格別だ。東京の都心、それも丸の内にありながら、いっさいオフィスビルを見ることがない。ただ見えるのは復元された東京駅のドームの下を行き交う人の流れだけ。元気な人も疲れた人も、年老いた人も若い人も、私にはまったく無関係に窓の下をあるいていく。私はE氏と別れ際に話したことを思い出していた…

ドームサイドに泊まると、いつも私はある女性のことを思い出すんです。彼女の名前はハルさんと言いまして、ええ、いまはもう相当な歳のおばあさんなのですけれども、毎年毎年、この季節になると、あの北口のドームサイドの部屋に泊まりにきているみたいですよ。一度だけ話したことがあります。昔の恋人のことを想い出すために泊まりに来てるらしいです。

E氏の話から連想したのは古くからあるホテルによくありそうな逸話だった。出会いと別れ。そんなものはどこにでもあるだろう。出逢えなくなった人の思い出は甘美だ。その人の悪い面が削ぎ落とされていって、純粋に良かった記憶だけが心のなかに浮かんでくる。でも、ときにそんな気持ちをどこか斜に構えてみてしまう自分がいる。

私は浮いてしまった時間を消化するようにバー・オークに向かった。先ほどの長い廊下を抜けて2階へ。1階の開放的なラウンジとは対照的に驚くほどにこじんまりとした薄暗いバーには独特の静けさが漂っていた。先客はひとりだけ。誰と話すわけでもなく、ただ黙々とウイスキーを飲んでいた。私も簡単なバーフードとジントニックを頼んだ。
淡々とした時間が流れていた。ただぼんやりと最近の妻との不和が脳裏に浮かびかけてきて、それを忘れるようにカクテルグラスを傾けた。
君が横にいたら…いや、でも横にいたら…幸せな記憶と窮屈な記憶が交互に入れ替わり、なんだか落ち着かない。いまを生きる私のなかに現れてくるのはいつもそのようなアンビバレントなのだった。しかし確固たる決心を持つこともできないままに、ぼんやりとした惰性を生きている。

その湿気にも似たおぼろげな心境を吹き飛ばそうと、キリッと冷えたマティーニを注文しようとしたときだった。白髪の女性が隣に座った。熟練のバーテンダーは彼女をみると、にこりと微笑みを浮かべて、すべてを知っているかのようにカクテルを作り始めたのだった。素知らぬふりをしようとした瞬間に、私は彼女と目が合った。

随分と日が長くなりましたね。

ええ、そうですね。あいまいなニュアンスで私は答えたが、なんだか自然な流れで私たちは会話を続けることになった。

このホテルもすっかりきれいになりましたよね。あらためて。昔はもっと質素な雰囲気だったものね。このまちの風景もどんどん変わってしまって、信じられないくらいビルもぴかぴか光っていて…素敵ね。

彼女こそハルさんだ。私が直接に聞いたわけではない。偶発的なこの会話のなかでそうだと推測したにすぎない。しかし私はそうだと確信している。

2. 丸の内の夜景

あら、ごめんなさい、こんな個人的な話を…

夫と最近死別して、ひとりで家にいるのも暇で…そんな話をしていて、はっと気づいて、ハルさんは申し訳なさそうにそう言ったのだった。しかし私はもう少し話を聞いてみたいと思った。それは長い人生に必ずひとつやふたつはある奇跡的な瞬間の話を聞けるかもしれないという淡い期待だったかもしれないし、特に当て所のない時間の暇つぶしの心境だったのかもしれない。いえ、ぜひ、もっと話を聞かせてください。私はほとんど無意識のうちにそう答えていた。

私が夫と結婚したのは33のときでした。当時としては晩婚も晩婚。それから60年近く連れ添いました。私たちの夫婦仲はよかったとはいえません。夫はいつも仕事に出ておりましたし、一緒になにかをした記憶はほとんどありません。なにかを我慢するほどのこともありませんでしたが、満たされていたかと言われれば、正直なところ、それほど幸せとも思えませんでした。
私は夫が出張にでかけているときにこっそりこのホテルに泊まりに来たものです。まだ東京にはあまりホテルがなくって、ましてや、東京に家があるのにわざわざ近場のこんなところに泊まりにくるなんて馬鹿馬鹿しいとお思いになられるでしょう?でも私にとっては大切な場所だったのですよ。
よく改札口の見える狭い部屋に泊まっていました。あの頃はいまみたいに豪華な雰囲気じゃなくて、もうちょっとあっさりとした雰囲気でしたね。廊下にも赤い絨毯が敷かれてて…そうそう、反対の八重洲口には銭湯もありましたよね。もう少しごみごみした場所だったような気がしますよ。
そう、どうしてひとりで泊まりに来てたかっていうとね、ここにいれば私は誰でもない私になれる気がしたからなの。誰からも役割を押し付けられないで、ただひとりになれる。別に夫が私に「こうであれ」と命じたわけじゃないんだけど、誰かと一緒にいると、どうしても、ね。だから私は誰でもない誰かになりたかったのだと思うのね。

静かな声が心の隙間に入ってくるような心地がした。そうか、誰でもない誰かになりたい。知らず知らずのうちに私は私になっていた。ふと妻のことも頭に浮かんできた。彼女も知らず知らずのうちに……
帆船は静かな波の立たない海では動くことができない。当たり前のことが積み重なっていくうちに私たちは「当たり前の私たち」になっているのかもしれない。

恋人ね…私がさりげなく聞いてみると、ハルさんは懐古的な呼吸で淡々と私にこのように言ったのだった。

たしかに夫と出逢う前に生き別れたひとがいました。この東京駅発の急行列車で西に旅立って行きました…帰ってくる、そう言っていましたね。夢見がちと笑われるかもしれませんが、この改札口の見える部屋からずっと人混みをみていると、そのなかにあの人がいるかもしれない、また逢えるかもしれない。そんなことを想ったこともありました。しかしだんだんとわかってきたというか、思うようになったというか、会えないことが大切なんだ。会えないからこそあのひとは永遠に私のなかで特別なひとなんだ。そんな気持ちになったのです。だから私は恋人に逢いたくて泊まっているのではないのですよ。逢いたいといって泊まりにくることがあの人を私のなかで特別な人にしてくれているんですね。この場所にくると私もまた特別な人になったような気持ちになる…そういう意味で私はこのステーションホテルにも恋しているのかもしれませんね。

そういって軽く笑った。ハルさんは、誰でもない誰かになって、ここで過ぎ去った記憶を想いながら「特別ないま」を生きているのだ。

3. 静かな夜のドームサイドの眺め

奇遇ですね、私も今日は北口のドームサイドの部屋に泊まっているのですよ。明日気をつけていってらっしゃい…

そんなあたたかい言葉を別れ際にかけてもらった。ハルさんにはもう二度と会えないような気もしたが、案外近いうちにまた会えるような気もする。

部屋に戻ってシャワーを浴びた。じつに非日常的なシャワーだった。しかしこの非日常は日常に支えられているものなのだ。私たちはいつもこうして日常に帰っていく。
明日になっても現実は何も変わっていないし、すぐに何かを変えられるわけではない。当たり前の日常へ再び…しかしこの場所にいると、それがなにかしら新しい旅のはじまりのように思えたのだった。

<写真と注釈>
1. ドームサイドコンフォートキング:東京ステーションホテルには素敵な部屋がたくさんありますが、はじめて滞在されるのであれば、やはりこの個性的な部屋を強く推したいと思います。個人的にはひとりで滞在するときにとても良いと思います。ラグジュアリーホテルの部屋としてはとても狭いのですが、広いことがラグジュアリーではないということを改めて実感させられる気がします。バスアメニティもなかなか個性的な香りで、このホテルのクラシカルな雰囲気によく合っていると思います。

2. 丸の内の夜景:ホテルのなかで過ごすのも良いのですが、夕暮れ時に散策するのも楽しいものです。周辺のオフィスで働く人、買い物客や観光客、あるいは天気が良ければ結婚式の写真撮影の幸せそうな光景も眺められるかもしれません(私はその幸せそうな背景の一部になってしまったことがありましたが、おそらく出来上がった写真では存在していなかったことになっていることでしょう)。動的な東京都心の光景を眺めたら、周辺の丸の内仲通りでコーヒーでも飲みましょう。いや、ステーションホテルのラウンジでロイヤルミルクティというのも悪くありませんね。スモーキーな香りとミルクのまろやかさが絶妙です。

3. 静かな夜のドームサイドの眺め:ドームサイドコンフォートキングに滞在するならば個人的には「北口側」が好みです。南口側はフロントやラウンジにも近くて便利ですし、ドーム側の2階部分にはカフェもあり、人通りが多い印象があります。これに対して、北口側はもう少し静かな雰囲気。チェックインをした後に長い長い廊下を歩いていく楽しみもあります。


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