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#1 グランドハイアット東京ーあの日も私たちは「定番」を眺めていた
昨晩から午前中にかけて降り続いた激しい雨がようやく止んで、東京の街はにわかに蒸し暑さを増してきた。2022年の日本。春がもうすぐ終わりそうな気配を強めていたこの日、私は六本木のグランドハイアット東京にいた。いかにもひんやりと冷たそうな石造りの床にハイヒールや革靴の音が反響するロビーを抜けて、私はひとまず部屋に向かうことにした。T氏との待ち合わせの時間まではまだもう少し時間がある。
キーンと音を立てる電動ロールカーテンを開くと、都心上空にはまだ薄曇りの空が広がっていた。この部屋は広すぎず狭すぎずとても快適だ。ひとつひとつ質の高い調度品が心地よく配置されている。
何年ぶりだろう…こうしてひとりで泊まるのは。
ため息のように言葉がこぼれていた。
君は今日もまた東京タワーを見るの?…だってやっぱり「定番」でしょ?
私たちが出逢ったのは人形町にあるワインバーだった。彼女は兵庫県の片田舎に生まれた人だった。彼女は言っていた。だってここが一番東京っぽいでしょう?銀座とか表参道とか、みんなが行くところじゃなくって、こういう誰にも知られてない小さなお店で飲むのが「粋」だと思うの。服の趣味も声のトーンも全体に甘ったるい人だった。少しだけ標準語とはイントネーションが違うのがかわいかった。5歳年上でイームズチェアが好きな人だった。
浅草の近くに生まれた私には、このあたりの雰囲気はあまりにも日常過ぎて彼女のいう「粋」があまり理解できなかったけれど、でも、そんなことを言う彼女に妙な親近感を覚えていた。彼女を連れてきた友人はそんな様子を察したのか気を利かせて私たちをふたりきりにしたのだった。
粋を求めるあなたが好きかわかりませんが…こんど、あえて「定番」みたいな場所を一緒に観に行きませんか?
それは我ながらぎこちない提案だった。せいいっぱいだった。彼女は子猫のように笑っていた。そしたらこんど東京来るときにね…!
そのころ私はよく六本木のグランドハイアット東京に泊まっていた。ひとりで泊まっていた。学生のときも、就職してからも、恋愛経験のなかった私はひとりで贅沢することの喜びを覚えて、わかりやすく豪華なこのグランドホテルはそのための格好の場所になっていた。泊まり慣れたためかスタッフは私の顔を憶えてくれていた。そのことが私をさらにこのホテルに引き寄せたのだった。スイートルームではなくてスタンダードルーム。それも眺望のひらけている西側ではなくて、高層ビルが視界を遮る東側が好きだった。この部屋から眺める景色こそが東京で一番東京らしい美しい光景だ。いつか大好きな人ができたらこの部屋から一緒に…そういう淡い想いと共に夜景を眺めていたのだった。
人形町のワインバーで過ごした3時間。私は彼女と何を話したのかをはっきりとは覚えていない。でも翌朝目覚めたときの空白感が、昨夜がどれほど満ち足りた時間であったのかを如実に表していた。私たちは連絡先を交換していた。自分でも信じられないことだけれど、私は彼女と出逢った次の週には堪えきれずに彼女の故郷を訪ねていた。
彼女はすべてわかっているかのように私に言った。嬉しい…!まさか来てくれるなんて思わんかったもん。それはとてもあたたかい言葉だった。私はあのときの楽しい時間が独りよがりではなかったと安堵した。しかし彼女の本当の気持ちはよくわかっていなかった。彼女と私のあいだには目に見えない空白のなにかがあった。
約束…!
城崎の駅まで見送りにきてくれた彼女が短くそう言った。
忘れてないよね?こんど「定番」を見せてくれるんでしょ?
私は軽く頷いて、もちろんだよ…敬語は知らないあいだに抜けていた。
特急列車は走り出した。広い円山川に新緑が映えていた。それはある5月のどこまでも美しい夕方であった。
…はっと我に帰った。感傷に浸っているうちに、T氏との待ち合わせの時間が近づいていた。窓の外に見えていたのは見慣れてしまったあまりにも日常的な東京の夕焼け空であった。いつから六本木の夕焼けは日常になってしまったのだろう。
T氏との会話はいつも淡々としている。音質のそれほどすぐれない店内のスピーカーからは薄められたエラ・フィッツジェラルドのAnything goesが流れていた。力強い言葉でTime have changed...そしてきわめて明るい曲調へと転じる。そうかAnything goesか…。一瞬T氏は昔を懐かしむような人間臭い表情になった。誰もが秘めた過去を持っているのかもしれない。
ところで、来週の金曜日の件ですが…はい、そうですね。またいつもの淡々としたプラクティカルな会話へと我々は戻った。
仕事を終えて、ターンダウンの済んだ部屋に戻ってカーテンを上げると、東京タワーが薄曇りの東京の夜空を焦がしていた。私はなんとなく部屋の静けさが落ち着かなくてテレビをつけた。ニュースでは最近の危機と窮状が延々と流されていた。チャンネルを変えると内輪の話に底抜けに明るく笑うトークショー。どちらも現実なのだけれど、どちらもあまりに私には遠い世界のように思えたのだった。シャワーを浴びてソファーに座った。
そんなにしょっちゅう東京に行かれへんもん…だって私…最後に電話したときもいつもの甘ったるい声だった。しかし涙声だった。
私たちは喧嘩をしなかった。お互いに強く主張しなかった。それは幸福な遠距離恋愛であったといえるかもしれない。彼女はきっと心の中でもっともっと想いを抱えていたに違いないが、それを口にすることはなかった。私もなにも言わなかった。私たちはいつも楽しく話をしていたのだけれど、根本的には結びつくことはなかった。
やっぱり、結婚することにしたよ。
ある日のこと彼女は唐突にそう切り出した。私はしばらくのあいだ言葉が出てこなかったが、ひとこと、そうなんだ、とそっけなく答えた。それはあまりにも呆気ないピリオドだった。
最後にもういちどだけ「定番」を見せて。お願いっ…!
下町の「粋」を愛した彼女は、私の車に乗って首都高からみる東京の夜景も愛した。そして六本木に着くと決まってヒルズに寄って東京タワーを眺めるのであった。それはあまりにも「定番」すぎる東京の光景だった。そしてグランドハイアット東京はひとりで泊まるホテルではなくなった。
私たちは六本木のけやき坂を歩いていた。遠くに真っ赤な東京タワーが見えていた。手を繋いで歩いていた。それはなんだかお互い最後にそのあたたかい感触を確かめあうかのようだった。
ほんま綺麗やね…見られてよかった。ありがとう。
彼女はにこやかに笑ったが、瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。それはこれまでに見たこともないような美しい表情だった。そのまま私は彼女を東京駅まで送ったのだった。
ぼんやりとした朝日で目が覚めた。六本木の朝はひときわ静かだ。
あの最後の電話。そのあとに続く言葉は聞き取れなかった。いまとなってはお互いの選択の理由をお互いが知ることはできない。しかし彼女も私もいまは別々の道を歩いている。ただそれだけが事実だ。
もうあと1時間もすれば朝食を取ってチェックアウトだ。今日は東京も蒸し暑くなるだろう。車の走る音が大きくなってきた。眼下を歩く人の数が増えてきた。君にはもう会えない。顔を洗う。スーツを着る。クレジットカードで支払ってカードキーをスタッフに返却する。時計の針を見る。もう午前9時だ…慌ただしく重たい鞄を持って、私はこの混沌とした街のなかの小さな粒のひとつになっていく。東京は今日も東京であった。