祖母の思い出と海老天蕎麦
自己紹介
あうあうと申します。
社会人一年生(24)です。大学を卒業して飲食関連の会社に就職しました。
入社してからはずっと自宅待機中なので資格の勉強をしています。
今回、Twitterでフォローしている「黒ワイン」さんのNote記事を拝読して、そしてある映画を観て、初Noteを書いてみることにしました。気づいたら3500字以上もある上、まとまっておらず読みづらい点もあると思いますが、今の情勢が落ち着いた時に、馴染みの飲食店を訪れる方が増えてくれればいいな。なんて思っています。(後から読んでみるとコンテストの趣旨からは外れてますね笑書いちゃったのであげます。)
もう一つのきっかけ
コロナで家にこもっている時間が多く退屈なので週に5本映画を見ることにしています。
先日、『時をかける少女』を初めて観ました。Noteを書くきっかけになった映画がこの作品です。きっかけになったのは、映画の中身というよりもある言葉なのですが…
主人公の女子高生が通う高校の理科室の黒板に、とある言葉が書いてあります。
「Time waits for no one」
そのシーンでは黒板の斜め下に「←( ゚Д゚)ハァ?」と実際のような高校の落書きが書いてあるんですが今は関係ないので省略。
時は待ってくれない。
フッと私の記憶の中のある飲食店のことが思い起こされました。
そう、時間は流れ続ける。思い出の風景が記憶にあっても時は決して待ってはくれない。
本日書くのはそんな思い出の風景であるお店。私にとっての人生の定点観測所であったお店の話です。
定点観測所であるところの飲食店
私の母方の祖母は、私が産まれる前から東京の浅草橋でお蕎麦屋さんを営んでいました。昼時はタクシー運転手や近所のサラリーマンの方々が食べに来てくださっていたと記憶しています。これが私の大切な思い出のお店。
私は東京育ちというわけではなく、父が転勤族だったため幼稚園から小学生の頃まで沖縄やら兵庫やらに住んでいました。そのため祖母に会うのは昔から長期休みやお盆などの年1~2回。東京に行った時は、いつも昼の営業が落ち着く頃に祖母のお店へ行って、私の好物のエビ天が1本多い「天ざるそば」か「天丼」を食べさせてもらっていました。
口数の少ない祖母は決まっていつも半分くらい食べ進めたあたりで「どう、美味しい?」とだけ聞いてきたのを覚えています。「美味しい」と答えると「そう。よかったわ。」とだけ言って、一番厨房寄りの座敷の席に座って、後ろから私が食べるところを見ていました。
夜になると、私と兄は親戚のおじさん(おじさんも岩本町でお蕎麦屋さんを営んでいました)の家に行ってスーパーファミコンのスーパーマリオワールドかボンバーマンをさせてもらう。というのが東京に来た時のいつもの流れでした。このコースは小学校を卒業する位まで変わりませんでした。私と兄の中では「東京=おばあちゃん・お蕎麦・スーパーファミコン」というのがイメージになっていました。
中学校以降は部活やらで何かと忙しくなって、お盆や年末に電話で話すくらいで、家族で祖母の所へ会いに行くことはめっきりなくなっていました。
おじさんの営む岩本町のお蕎麦屋さんには高校時代に何度か一人で顔を出していましたが、浅草橋の祖母の所には「古くなった店(家)をどうするのか」という子どもには少々デリケートな問題があったため、顔を出すことは1年に1回あるかないかでした。お蕎麦を浅草橋のお店で食べさせてもらうことはその頃には無くなっていました(おじさんのお店で食べさせてもらっていましたが)。
高校卒業後に浪人した私は、無事第一志望の大学に受かり上京することになりました。引っ越しが済んだ3月下旬頃、進路の報告も兼ねて久しぶりに顔を見せに祖母の所に行きました。
「ばあちゃん、4月からこっちの大学に通うんだ。もっと顔見に来るね」
「あらそうなの。お勉強頑張んなさいね。」
いきなりだからびっくりするかなぁとか思いながら、こんなやり取りを頭の中に思い描いていた記憶がります。
お店に着くと、平日の昼なのに暖簾は下がっていました。(水曜は休みにしたのかな)なんて呑気に考えながら戸を開けて店の中に入っていくと、祖母と同居している叔母が出てきてくれました。奥に入ると祖母はいつもの厨房寄りの座敷に座っていました。
「ばあちゃん、久しぶり。」
「…ひーちゃん(叔母)、この子誰?」
祖母は認知症になっていました。
当時の私は、祖母の記憶の中に自分が居ないことよりも、自分の中の「祖母」が居なくなってしまったことに悲しさを感じていました。それが2015年3月のこと。大学に入学して以降は、おじさんのお店には時々顔を出してお蕎麦を食べるものの、祖母のことは何となく話せず足も運ばないようになっていました。
2018年
先述の出来事から3年間が経ち、祖母のことは辛かった出来事として私のなかに留まったままでした。私の実家には「年末年始だけは必ず家族揃って年越しを迎える」という掟があります。その掟の通り、私は大学の冬休みで沖縄に帰省してゆっくり過ごしていました。そして12月30日。兄が実家に到着した日の夕方頃に電話が来ました。祖母が危篤で長くないと。家族全員で元日朝イチの飛行機で東京に帰り、病院に行きました。
病室に着いて両親と兄が祖母の居る病室に入っていく時、開いたドアから祖母の細くなった足が見えました。どうしても3年前のショックだった出来事を思い出してしまい足が動かず病室に入ることができませんでした。1分程ドアの前立ち尽くした後、同じフロアのテーブルで座って待っていました。両親は何も言いませんでした。この時に祖母に声をかけられなかったこと。今までの人生で一番後悔していることです。
その1週間後、期末のテスト期間の頃、祖母は亡くなりました。
何となく状況が受け入れられず(忌引きでテスト行かなくても単位来るのか…)なんてことを第一に考えていました。
お通夜当日も周りの人が泣いているのに、何だか涙も出てこず、頭の中がぼやーっとしていました。
祖母のお骨を祖母の家に持って帰り、親戚一同でお酒を飲んでいると、昔のアルバムを母が見つけてきました。「懐かしいね~」なんて言いながら兄と母とでアルバムをめくると1枚の写真が目に留まりました。私と兄と祖母が3人でお店で写っている写真。写真で祖母が座っていたテーブルは、丁度祖母の遺影が置いてあるテーブルでした。写真の祖母と骨壺とを見比べた時にやっと祖母にはもう会えないのだという実感になりました。
四十九日
この日はとてもいい天気だったのを覚えています。この頃には自分の中で祖母の死を受け入れられていて(祖母が天国で心配しないような生き方をしよう)と思えるようになっていました。1ヶ月と少しぶりに会った母は家の事で少し疲弊した様子でした。四十九日の法要を終え、岩本町のお店で「皆でゆっくりお酒でも飲もう」とおじさんに誘ってもらったので、法要が終わってから岩本町に行きました。
揚げ麺や刺身をつまみながらお酒を飲んで、最後に温かい蕎麦で〆る。いいですよね。日頃はBarに行くことが多いですが、たまにこういう飲み方すると凄くいい気分になれます。
23時頃にそろそろお開きにしようかとなりまして。すると母が溜まった疲れもあって今まで見たことのない酔い方をしていました。真っすぐ歩くこともできずタクシーまで自力で歩けなさそうだったため、私がタクシーのとこまで母をおぶっていきました。
私の中で絶対的に「強い大人」であった母の軽さに驚きました。
「そうか、私はいつの間にか母を背負えるくらい大きくなったんだなぁ。」という時の流れの実感。
その年の瀬に家庭の事情でおじさんも店を閉め、この時の〆のお蕎麦が最後の「母方の家系のお蕎麦」となりました。母との出来事も最後のお蕎麦も大切な思い出で、あの時より幸福と温かさの沁みるお蕎麦は自分にはないだろうと思っています。
「Time waits for no one」
人は勿論そうですが、私たちの中にある「思い出を呼び起こさせてくれる場所」もその例外ではありません。私たちの中の原風景も変化していくのだと思います。
でも、変化しないものもある。それこそ「繋がり」だったり「思い出」でないでしょうか。
祖母が私の事を忘れてしまっても、私が病室で祖母に声をかけられなくても、祖母やおじさんのお店のお蕎麦を食べることができなくなっても、「繋がり」と「思い出」は無くならない。それは祖母の店の風景が私の記憶から失われても。
変わっていく風景から、変わらない思い出や心の繋がりを少しでも増やしていくこと。それが自分や他人の小さな拠り所となっていくこと。
祖母を始めとして周りの大人が教えてくれた大切なこと。「自分の人生を耕す大切さ」を感じながら忘れずに過ごしていきたいです。
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