おじいちゃんの事。
広島と長崎の平和記念日と15日の終戦記念日とで、テレビもYahooニュースもSNSも戦争の記録が沢山綴られ、忘れちゃいけないと思うから色々目を通していたんだけど、余りにも悲惨な話が多くて段々身体の具合が悪くなってしまって、途中で読むのをやめた。しまいには持病の不整脈が出ちゃったんだ。PTSDを患ったお年寄りの元軍人の話は読んでて辛かった。僕のおじいちゃん、つまり母親のお父さんも、今思えばPTSDだったんじゃないかな。当時はそんな言葉も概念も無かったからね。おじいちゃんが亡くなった時、お袋は「やっと死んだか。」と安堵したと言ってた。
まだ僕が生まれる前の話だけど、おじいちゃんはいつも一人で本を読んでる物静かな人だったのに、戦争から生きて帰って来ると、毎晩夜中になるたび「敵機来襲ーーー!!!」と包丁を振り回して暴れて、家族に「整列ーー!!番号ーーー!!!」って叫ぶんだと。外が土砂降りだろうが雪だろうがおばあちゃんはお袋とまだ小さかった叔父叔母を連れて外へ逃げ出して、おじいちゃんが寝静まるのを何時間も待ったそうだ。「酒飲んでは狂った様に暴れる大迷惑な父親だった。」と晩年までお袋は言っていたからオラもおじいちゃんに良い印象は無かったが、なんだかおじいちゃんも可哀想だったなって、今は思うんだ。恐怖体験に毎晩うなされ、家族にも何ひとつ理解されず・・。挙句は浴びる様に飲み続けた酒に身体を蝕まれ、街で暴れたんだか倒れてたんだか、警察のお世話になったまま留置所で亡くなった。戦争に行く前はお酒を一滴も飲まなかった人だったのに。。。
僕の父親も学徒動員前に志願兵で入隊して、浜松航空隊や宝塚航空隊を点々としながら飛行機の整備をしていたそうだ。沢山並んでる飛行機の修理をやる場所だから、狙われる。アメリカの攻撃機が次々に高度を下げて機銃を乱射して来る。父は「この野郎ォォォーーー!!!!」と叫びながら半狂乱になって対空機銃を撃ちまくったそうだ。自分の命が危険に晒されてるのに、敵機が機銃から放つ弾丸の軌道が太陽の光に反射してキラキラッと光って、父は機銃を撃ちながらそれを見て不思議と「あぁ、、綺麗だなぁ・・・」と思ったそうだ。
オレンジ色に光る弾丸が耳元をキューーン!!!キューーン!!!とかすめ、ようやく攻撃が止んで、息を切らしホッとして振り返ると、仲間達のバラバラになった身体や肉片があちこちに飛び散っていたんだと。それを生き残った兵達で拾い集めて山の様に積んだそうだ。
父もあまり戦争体験は話したがらなかったが、僕は「聞いておかなくちゃ」と思って何度か父に「聞かせて」と頼んだ。辛い事を思い出させちゃってごめんよ。
楽しい話が書けずに申し訳無いが、今日はなんだかおじいちゃんと親父の事が頭から離れない。
ちゃんと成仏してくれてるといいな。