支援について
アトゥトゥミャンマーの3年間で私が考えさせられたことをお話ししたいと思います(共同代表 渡邊さゆり)
2021年2月12日に第一回目の祈り会を開催して、3年半になりました。最初に祈り会をスタートした時は、本当にこれが最初で最後、そんな気持ちでした。この集会を、毎週定期的に、複数回やるというような展望など全くありませんでした。それはミャンマー軍事クーデターなど、到底国際社会が許容せず、即刻、軍は撤退させられるよう経済的、政治的関与を受けるという思いがありました。でもそうではありませんでした。
憂慮という意見表明はあっても内政干渉できないことを盾に、国際社会はミャンマーで起こっている暴力を静観しました。政治的判断は難しい状況ではあったでしょう。しかし、クーデター前年に行われていたミャンマー国内の総選挙は日本からも監視団が派遣されていたほどに、ミャンマーの民政移管は注意深く他国との間の約束のように進められてきました。ところが、一旦、軍事暴力が爆発すると、人道支援の体制がことごとく崩れていくことを、この祈り会の初期に見させられることになりました。
毎週のように報告してきたクーデター軍の暴力は壮絶でした。そして私は、これがリアルに私が知っている人々のすぐそばで起こっていることに、正直震え上がり、そこには怒りよりも、恐怖の方が多かったと今思っています。
うんざりするような状況でした。コロナが世界的蔓延をする中、ミャンマーでも民主化を求めてデモをする人々がコロナにも襲われ、治療を受けることができないという訴えが聞こえてきます。酸素ボンベ、救急車、これらのものが、日本の支援でミャンマーに贈られたというニュースも流れました。しかし、それらは皆、軍の所有とされてしまい、実際に苦しんでいる市民を救うものとはならなかったということも知りました。そんな中、4月には日本人ジャーナリストの北角裕樹さんが、治安部隊によって身柄を拘束されたニュースが流れました。ミャンマー日本大使の丸山氏はビルマ語が堪能で、クーデター直後にも大使館前でビルマ語で対応していた映像が流れました。北角さん解放にも相当な尽力をされるだろうと思い、またこのように実際に日本人が捕まってしまうような状況であれば、北角さんが解放されれば、日本政府として正式に抗議、そして軍批判がなされるとも思いました。
祈り会でも北角さんの解放を求める祈りが続きました。5月に北角さんは解放され帰国後すぐに、この祈り会(まだアトゥトゥは結成されていなかった)でも証言してくださいました。
毎日暴力の跡を辿る、生きられる命が軍が医療機関をコントロールすることによって奪われていくことを追いかけるそういう集会を毎週することが、果たして良いのだろうか?そんな戸惑いが私の中にはありました。祈り会の継続の中で最初にぶち当たった壁は、「被害者搾取」「消費する素材としての暴力の対象」ということでした。被害者ポルノ的に悲惨な状況が毎週提示されることで、人々が祈りへと惹きつけられていくのだとすれば、結局、祈りというのは誰かの血を必要としているだけなのではないか。人々を集めようとすればするほど、人々に関心を持ってもらおうとすればするほど、より悲惨なことを探し出して、それを提示する。そうすれば聞いた人は逃げられなくなる、こんな大変なことの前にあなたは見捨てるのかと言いやすくなる。でもそこには俯瞰的すぎる祈る側と祈りのネタにされる対象との間の格差があると思われました。
祈り会でこのような違和感が毎週積み重なっていく中で、もっと人間の生身の姿にピタッとくっつくことが必要なのではないかと思いました。ざっくりとしたミャンマーのひどいこと、ではなくて、具体的な一人の人の感情について、その叫びについて私たちは真摯に耳を傾け、そして自分自身の、無様さをも表すべきではないかと思いました。そこで、インタビューという形で、祈り会にいる人々が互いの話を聞き合う、ダイアローグの会を数回持つことになりました。この頃の私は、もう精神的に今後どうしたらいいのか本当に分かりませんでした。実際のところは、それまで働いていた神学校から離職することになってしまい、自分の生活そのものもとても厳しい中で、目にするものが暴力を受けた傷だらけの体ばかりであるということに絶望的な思いが重なっていきました。
しかし一方で、この状況の中、なんとかして一人でも助かって欲しいというそういう思いで献金を集め、それを送金することで生活の援助ができないか、何かできないか、という問い合わせも多くもらうようになりました。アトゥトゥミャンマーを設立する準備の時に、切り離してはいけないのは、今、軍事クーデターによって1日1日が危険と隣り合わせで、極度の生活上の困難を目の当たりにしているミャンマーにいる人々、特に繋がりがあったミャンマーバプテスト関係者と、日本にいるミャンマーにルーツがある人々、そして祈り会に集まる人々この三者が絡まり合うようなことが大事なのではないかとずっと思っていました。
予定していなかったのですが、最初に献金で購入したのが、ご遺体を載せる台車でした。生きるためにこの会を立てようとしている時に、そのようなリクエストをもらったことから、ガラリと自分のイメージするものを贈るという発想を転換させられました。それはリクエストに完全に答えていくというより、やりとり をするということに注目する必要があると思ったのです。受け取ったレシートよりも、なぜそれが必要だったのか、そしてさらにどのような関わりをするのか、そういうことをいちいち気にして送金するということにしたい、そう思いました。
ファンドの創設で後ろにお金を持っていれば、これだと思う活動を立案し、組織し、そして実行しやすくなります。でもアトゥトゥのミャンマーへの送金は、集まったものを見て、そこから相手の状況を考え、政情を読み解いて声をかけて送金するということが大事だと思いました。本当に必要なのは、献金を呼びかけること、それに応じること、それを預かること、そして声を交わし合うこと、さらにそれを献金者に共有すること、これらを受領書というものではなくて、共に祈るということでやっていくことにしたい、そう思っていました。
この方法が、軍事暴力に抗う方法だと思っているからです。実は軍事独裁政権はいくらでも必要な相手には金を渡すのです。懐柔するというのが相応しい言葉かもしれません。市民に金を渡さないわけではないのです。利用できると判断されればいくらでも金を注ぎ込んで、懐に抱え込むのです。献金を預かり、相手にいうことをきかせるようなそんな使い方、そんな方法になってはいけない、どういうふうにこれを進めていくのか、毎月送金をするだけで、心がどんよりしました。これが続いていたら、結局はお金をもらう人と渡す人の関係になって、常に送金ありがとうを言わないといけないがわ、言われて当然の側、そういうように分断されていくのではないか、こんな関係のどこにアトゥトゥがあるのだろうか?と。祈りも可哀相さを強調するようなことで、祈る材料を作るというのではなくて、生きる、生き延びる、生き残ることの尊さをこそ共有したい、そんなふうに思うようになりました。
アトゥトゥミャンマーのアトゥトゥはつねに課題なのだと思うのです。ミャンマー支援が目的である、というふうに掲げるよりも、アトゥトゥを追求する仲間だとそんなふうに私は捉えています。
アトゥトゥミャンマー3周年特別集会
参加 110人