「煩悩リセット稽古帖」を読みました
某古本屋で偶然手に取ったこの「煩悩リセット稽古帖」、ヘタウマな4コマ漫画集のような表紙でみた目はとてもキャッチーです。基本的に宗教色の強い本は避けているのですが、この本はビビッと来るものがありまして購入し、読み始めてみました。
小池龍之介氏というお坊さんが仏道的心理分析を説法するという内容で、最近はすっかり自己啓発本を読むのに疲れてしまった自分の心に優しく染みてきました。自己啓発本を数多く読みまして、読み終えた直後は燃えるようなモチベーションで新しいコトに挑戦しようと思うのですが、1週間位経つといつもの感じに戻ってしまう事が多々あります。重力に引きずられるかのようにすっかりと元通りです。
新しい情報を得て、新しい挑戦をするコトはとても素晴らしい事ですが、こう足し算を続けていくと余計なモノが周りに着きすぎて動き辛くなる感じがします。この本に書いてあるコトはそれとは逆に余計なモノを取り去っていく感じです。
引用(わたくしたち修行者が、どうしてストレスなく日々生活し、それゆえストレスを解消する必要もないかと申しますと、朝から晩まで、会話をするにしても、食事をするにしても、仕事をするにしても、たウェブサイトを更新するにしても、何をするにしても、脳内に引きこもらず、可能な限り念を込めて没頭しているからです。すると何をやっても充実。ですから、迷いの業を少しずつ浄化し、減らす事が賢明です。p102~103)、
依然、何度かお寺で座禅をする機会がありました。この際、指導してくれた和尚さんは、難しい説明は一切無しで、座禅をするまでの段取りを教えてくれました。型に沿ったうえで自由に座禅をしたらいいですよ…という感じでした。
引用( ここで、「考えない」とは申しましても、考えるのが必要なときは考えなければなりません。ただし、その場合も、あくまでも考えることのみに集中してスパッと的確な決断を下すことが大切なのでありまして、考えながら別の雑念、たとえば、まわりの音に意識を漂わせたり、昨日あったいやなことを思い出したりしてますと、それらの雑念のせいで判断がすこぶる鈍ってしまいます。
ですから、作業をするにせよ、考えるにせよ、何かをするときは、その作業内容と必要な情報のみに意識のターゲットをしぼり、他の雑念に心がさ迷わぬようにすることが必要なのです。
これが出来てまいりますと、一つひとつの情報に対して向けられるエネルギーが、劇的に、ほんとうにびっくりするくらい高まるのを体験できます。(略)
意識というのは、毎瞬、大量の情報処理をしているのですから、本来、ものすごいエネルギーをはらんでいるのです。余計なことに浪費されてるエネルギーをカットして一点のみに集約いたしましたら、たとえ、どんなにつまらなく見えることをやっていたとしても、時間を忘れるくらいの充実感が得れるようになります。これをハピネスのための基礎力と申さずして何と呼べましょうかp108~109)
ひとつの事に集中するというのは当然の事でありますが、最近はガジェットが常に身の回りにある環境、もちろん使うかどうかは各自の判断によりますが、この本を読むに連れ改めてマルチタスクの弊害について考えずにはいられませんでした。SNSで近況を発信して、それに対して反応をもらうことは楽しいです。しかし、それをやり続けていくと他人と自分を比べることで、妬み的な感情、この本で言う煩悩、怒りの業の蓄積になる部分もあるのかなと思いました。もちろんだからと言ってSNSを止めるという極端に走るのではなくて、使い方を考えることは必要なのかと感じました。
ここ半年あまりアレルギー性の湿疹に悩まされております。市販の薬を飲んで抑えてはいますが、なかなか良くなりません。自分の体のこういう反応というのは、何かを自分に知らせようとしているということなのかと思います。自分のコトというのは意外と、本人には見えない部分があったりします。思いっきりブレーキを踏みながらアクセスを踏んでいるような、無理をしているようなコトも、もしかしてあるのかもしれません。
イライラや不快感にとらわれたら、それが何処から来ているのか、冷静に考えてみて、その根本に向き合えるようになれればいいなと思います。
引用(煩悩は数多くありますけれども、いかなる煩悩も、この、欲望・怒り・迷い、言い換えれば、欲望か嫌悪感か妄想という三毒が組み合わさることによって発生いたします。ゆえに、この三毒をもって根本煩悩と名づけることができるのです。
煩悩とは「煩い」わせ「悩」ませると書きますように、まさにわたしたちの心身にダメージをあたえ、ストレス源になる毒素です。欲望がないと頑張れないじゃないか、とお思いでしょうか。いえ、欲望と意欲は、別物です。欲望や怒りの煩悩エネルギーを燃料にして無理に頑張りますと、アドレナリンが身体を刺激します。アドレナリンの過剰な分泌は、後に強いストレスを残し、心身をぐったりさせてしまいます。p17)
思うに自分は「こうあるべき」という基準が多過ぎるのではないかとも思いました。それは自分の現状を作ったものである部分があれば、自分の見聞きした情報によって作られてるところもあるでしょう。しかし、その基準的なモノが変に自分を縛ることになったり、モノの見方にバイアスをかけてしまう部分もあります。また、その基準的なモノが強くなることで欲望・怒り・迷いなどの感情に繋がり自分を痛めつけてしまうという悪いループがあるのかもしれません。まあ、なかなか直ぐに変えれるものでもないのでしょうが、出来るだけシンプルに考えるようにしてみようかなと思いました。
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