「現代の女性美」と齋藤史
旭川で2度暮らし、のちに日本を代表する歌人となった齋藤史(さいとう・ふみ)。
旭川を訪れた酒と旅の歌人、若山牧水とのふれあいに加え、二・二六事件との深い関わりなど、「物語を持った最後の歌人」と呼ぶ方もいます。
彼女については、昭和初期、いわゆるミスコンで優勝したといった風説がありますが、今回はそれに関して入手した興味深い資料をご紹介します。
***************
◆ 旭川で二度暮らした歌人
画像01 齋藤史(1909−2002・齋藤宣彦氏蔵)
齋藤史は、1909(明治42)年、東京生まれ。
父、瀏(りゅう)の転勤に伴い、幼少期の5年間と、十代の2年余を北海道旭川で過ごしました。
瀏は陸軍将校で、佐々木信綱(ささき・のぶつな)門下の歌人でもあった人です。
史は1度目の旭川滞在時、当時将校の子供が通い、北の学習院と呼ばれた北鎮(ほくちん)小学校で学びます。
この時代、のちに二・二六事件で決起する栗原安秀(くりはら・やすひで)が同級に、坂井直(さかい・なおし)が2級下にいて、幼馴染でした。
二・二六では、この2人が処刑され、瀏も彼ら青年将校を支援したとして禁固刑を受けました。
このため事件は史の生涯の創作上のテーマとなりました。
◆ 地元文化人が書いた風説
画像02 酒井廣治(旭川市文学資料館蔵)
その史や瀏については、何人かの旭川の地元文化人が書き残しています。
その一人、歌人で実業家でもあった酒井廣治(さかい・ひろじ)。
短歌の研究会、旭川歌話会(かわかい)で齋藤親子と親しく交流した人です。
「(瀏は)斗酒辞せず酒豪で人に隔てを置かない人だったが我の強いところもあつた。然し歌会などで人の意見は意見としてよく聴くといふ寛容さを持つていた。奥さんが病身のため女学校を出たばかりのお嬢さんの史子さんが万事家事を切り回しておられた。史子さんは後東京毎日新聞社募集でミス日本になつたので有名だつたが齋藤さんに似て丸顔の可愛らしいお嬢さんだつた」(歌誌「あさひね」昭和28年7月号「齋藤瀏さんのこと」より)
この頃、史は自ら「史子」と名乗ることが多かったようです。
子を付けたほうがモダンな名前の印象が強かったことに加え、実際に、出生届には「史子」としてあったのを、係が間違えて「史」としてしまったという事情もありました。
画像03 「旭川夜話 その裏面史―」(佐藤喜一著)
一方、旭川市立図書館の館長などを歴任し、旭川ゆかりの詩人、小熊秀雄(おぐま・ひでお)の研究でも知られる佐藤喜一(さとう・きいち)は、旭川と二・二六事件との関連について触れた文章で、次のように書いています。
「斎藤瀏が旭川師団の参謀長当時、栗原勇(筆者注・栗原安秀の父親)は連隊付中佐で官舎が隣接し(二区二条)、安秀と瀏の長女史とは幼馴なじみだった。北鎮小学校は同級生として通って居り、瀏の家にも遊びに来ていた。
若山牧水夫妻が旭川にきて、酒井広治、斎藤瀏らを交え歌会があった頃(大正十五年)、師団官舎には評判の三美人がいた。井上久子、国友澄子、斎藤史(彼女は後に「アサヒグラフ」の表紙で全国に紹介さる)らだった。
史は五尺二寸五分(筆者注・約160センチ)、ハンチングをあみだに冠り白いスェーターに乗馬ズボンといったモダンスタイル。「若草」や「少女画報」に投稿していた文学少女、後に前川佐美雄らと「短歌作品」を発行、第一歌集「魚歌」「暦年」「朱天」を刊行、戦後長野に疎開、小説、短歌に活躍し、長野県文化功労賞や、短歌部門では「釈迢空賞」を得た」(「月刊道北」昭和55年8月号「二・二六事件の立役者たちと軍都旭川」より)
酒井廣治は、東京毎日主催のコンテストでミス日本、佐藤喜一は「アサヒグラフ」の表紙と、それぞれ書いています。
ただ史の年譜などにはそれらしい記述はありません。
一方、旭川文学資料館の齋藤史の展示コーナーの掲示写真に、「アサヒグラフ」募集の「現代の女性美」で最高点を取った、といった内容の記載があることがわかりました。
その写真がこれです。
画像04 断髪・洋装姿の史(旭川文学資料館蔵)
史は、明治生まれにしては晩年にいたるまで洋装を好んだ人です。
この写真は、その好みがよく出ている上、当時の流行りだった断髪のモガ(モダンガール)姿が印象的です。
◆ 紙上ミスコン「現代の女性美」
さらに「アサヒグラフ」の「現代の女性美」という企画を調べていくと、昭和4年の3月27日号にこのような記事がありました。
画像05 募集記事が掲載されたアサヒグラフ(「アサヒグラフ」昭和4年3月27日号より)
画像06 「現代の女性美」募集記事(「アサヒグラフ」昭和4年3月2
7日号より)
「現代の女性美大募集」。
いわば雑誌上のミスコンですね。
「この昭和新時代の女性美がどのような標準のもとに変化しているでしょうか。ここに左記要領と規定で読者諸君の推薦によって最も現代を代表する女性美を全日本から求めようといたします」。
記事にはこうあります。
説明によりますと、企画では、推薦者が写真と経歴を編集部に送り、各方面の権威とされる審査委員が入選者を選定して雑誌に掲載します。
さらにその入選者の中から「現代の女性美」の代表8名が選ばれるという趣向でした。
ちなみに審査委員は、画家の藤島武二(ふじしま・たけじ)、鏑木清方(かぶらき・きよたか)、彫刻家の朝倉文夫(あさくら・ふみお)、彫刻家で文学者でもあった高村光太郎、民俗学者の柳田国男(やなぎた・くにお)、劇作家、演出家の村山知義(むらやま・ともよし)などそうそうたるメンバーです。
画像07 1回目の入選者発表記事(「アサヒグラフ」昭和4年5月15日号より)
そして5月15日号で、1回目の入選者が発表されます。
ご覧のように文学資料館に掲示された史の写真が載っています。
推薦者として応募したのは山田三郎という熊本の人物と書いてありますが、史との関係は不明です。
ただ写真を添えての応募なので、本人や瀏も承知してのことと思われます。
入選者の発表は順次行われ、全部で90人の写真が紹介されました。
そして8月になっていよいよ代表8人の発表となります。
◆ 史に最高点?
1回目の発表では4人が紹介されましたが、史はいません。
画像08 代表8名の発表2回目(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
2回目の発表です。
左端に史がいます。
入選発表では胸から上だけでしたが、こちらは上半身全体が紹介されています。
画像09 史の紹介文(「アサヒグラフ」昭和4年8月14日号より)
写真には、紹介文も添えられています。
「齋藤史子さん
史子さんは(二一)は熊本第六團第十一旅團長齋藤瀏少将の令嬢、小倉第一高等女学校を出られた方で、今度の女性美代表の審査會で各審査委員が口を揃へて、どこにも不自然なところがない、全く均整のとれた顔形と最高點で折紙をつけられただけに、至って圓満なタイプの持主です」
実は発表された代表8人に序列は付けられていません。
ただ「最高點で折紙をつけられた」とあることから「ミス日本」などの誤解につながったと思われます。
ちなみにこの企画では、入選者90人のうち、誰が女性美代表8人になるかを当てるという賞品付きの読者投票も行われていました。
そしてなんと23万6000もの投票があったと書かれています。
一人で何回も投票できたようですが、それにしてもものすごい数。
この時代の史はまだ歌人として有名になる前ですが、多くの人の記憶に残ったに違いありません。
一方、記事では、史を21歳としています。
しかし生年月日からみると、この時点での満年齢としては20歳です。
さらに写真も、雑誌掲載の前年に撮られたものである可能性が高いことが分かってきました。
その根拠となるのがこちらです。
画像10 昭和3年撮影の写真(齋藤史記念短歌文庫蔵)
長野市にある齋藤史記念短歌文庫に所蔵されている写真です。
撮影は昭和3年。
実はこの写真、史は19歳と裏書きされています。
「アサヒグラフ」に掲載された写真と比べますと、服装や髪型などがまったく同じ。
2枚は同じ日に撮られた可能性が高いと思われます。
「現代の女性美」応募のため、1年前に撮影した写真を、応募者が借りて送ったと思われますが、いかがでしょうか。
画像11 18歳の史(昭和2年3月・旭川新聞)
史は、旭川を訪れた若山牧水の言葉が短歌を始めるきっかけとなったこと、そして先に述べた二・二六事件との関わりなどから、「物語を持った最後の歌人」と言われることもあった人です。
この誌上ミスコンの件も含め、本当に滅多にない人生を生きた人だったと思います。
画像12 旭川での齋藤一家と若山牧水・喜志子夫妻(大正15年・齋藤宣彦氏蔵)