見出し画像

小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第十章・第十一章

<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。 
今回はいよいよ最終回、第十章と第十一章です。

この2章は、後日譚を含む物語のエピローグです。
このうち最終十一章の舞台は、石狩川と大雪山を望む景勝地、嵐山(あらしやま)です。
嵐山とその周辺は、アイヌ民族にとっての聖地です。
また旭川という街の成り立ちを考えますと、その開発に向けた構想が立ち上がった、まさに一歩目が刻まれた場所でもあります。
先人たちがそこから望んだ大雪の山々の姿は、百数十年経った今も変わっていません。
最終章は、そんな思いで書きました。

今回、初めて小説に挑戦しました。
脚本のときも登場人物の動きなどを頭の中で描きながら書くのですが、小説では、表情や声のトーンなど、その作業をより細かくする必要がありました(脚本では、そこは役者さんに委ねられます)。
同じく、シーンが展開する場所=建物や部屋の様子などもより詳細に思い浮かべ、言葉に置き換えなければなりません。
なので、書きながら、「役者」としてそれぞれの登場人物を演じ、さらに「演出家(舞台美術や音効も含め)」として、物語の世界を具体化するのが、小説の作業という印象を持ちました(特に、今回は脚本を元にした小説でしたので)。
芝居作りは共同作業の積み重ねですが、小説はすべてを一人で完結させる。
チャレンジしたことで、どちらの作業にもそれぞれの魅力があると感じることができました。

それでは今回も最後までお付き合いください。




第十章 昭和二年九月 カフェー・ヤマニ


平原のまん中に
洋燈(らんぷ)のやうに
輝いている街
光を増し、光を増し、
延びに延び、ひろごり、
高くその燈火(あかり)をかかげて、
陽(ひ)の御座(みくら)を占める街、
光栄の町、
この町に祝福あれ!
  
                 (百田宗治「旭川」)


 旭川一の繁華街、四条師団道路にあるカフェー・ヤマニ。いつもなら昼営業でもそれなりに客が来る日曜日だが、きょうは「本日、昼営業は貸し切り」と書かれた紙が表に貼られている。

 店内では、店主の速田と女給たちに加え、義雄、武志、東二が宴会の準備に追われている。カウンターの前には、いつものツーピースを着た文子がいて、ハツヨ、栄治の兄妹と談笑している。奥のテーブルでは、なぜか碁を打っている二人。どうやら北修に市太郎が付き合わされているらしい。そこに武志がやってきた。

「北修さん、碁なんてやってないで、こっち来てくださいよ。もうじき始まるんだから」
「おれ、今回何もやってないしよ。部外者だべ」

 北修が拗ねたようにそう言うと、後ろから義雄も声をかけた。

「何言ってんですか。きょうはハツヨちゃんと栄治さんの就職を祝う会なんですから。北修さんがこっちにこないと、神田館の大将だって」
「……そうか? 大将、行きます?」
「行こうよ。あっちの方が絶対いい」

 やはり早く切り上げたかったようだ。

「んー、じゃ行くか」

 二人がメインテーブルに来ると、飲み物などを運んでいた女給たちが歓声を上げた。

「キャー、神田館の大将と北修さんだー」
「キャー、スケベ―」

 賑やかな声を聞いて、他の出席者もメインテーブルの近くに集まってきた。その一人一人に飲み物が入ったグラスが回される。

 様子を見て口火を切ったのは進行役を勤める速田である。いつもはショーなどを行うミニステージに上がると、こほんと一つ咳払いをした。

「……はい、皆さんご準備はよろしいでしょうか? ……改めまして、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。きょうは、江上栄治君とハツヨさんの就職がめでたく決まったことを祝しての集いであります」
「もう結構前から働き始めてますけどね」

 武志が茶々を入れると、速田が引き取って続けた。

「そうなんだけど、ま、見習い期間が終わって、正式に採用されたってことなのさ。……では、佐野先生、乾杯のご発声を」

 江上兄妹の隣りにいた文子が、えー、私聞いてないと声を上げる。

「いや、だって二人の就職世話したの、先生じゃないですか」
「それは、そうだけど」
「みんな、のど渇いてるんで、ちゃっちゃとお願いします」

 速田がそう言って促すと、幾分照れながら文子がステージに上がった。手にはジュースのグラスを持っている。

「それではご指名いただきましたので、ひとことだけ。栄治君、ハツヨちゃん、就職おめでとう。いろいろあったけどって言いたいところだけど、きっとこれからも二人の前にはたくさんの壁が立ちふさがると思う。だからちょっとずつでもいいから強くなって。で、その分、ほかのみんなが困った時は、助けてあげて。それだけ。じゃ、みんないい? 二人の前途を祈って」

 文子がグラスを掲げて乾杯と声を上げると、皆が唱和した。

 集いが始まると、さっそく江上兄妹のところに祝福に行くもの、テーブルに置かれたオードブルに手を伸ばすものなどさまざまである。女給からビールをついでもらい上機嫌の北修と市太郎のところに速田がやってきた。

「北修さん。瓶ビールで大丈夫ですか? 生の方が良かったですか?」
「いやいや、昼間っから飲めるだけで十分十分」
「……でも早いですね。あの騒動からもう三か月」

 自分も女給にビールをついでもらいながら速田が振り返る。

「そういや、極粋会と黒色の手打ちはここでやったんだって?」

 グラスのビールを飲み干すと、北修が言った。

「はい、そのとおりです。極粋会から辻川会長が来て、警察署長さんが仲介役で。黒色の方は、小樽から幹部が」
「小樽? なんで?」
「梅原があれ以来いなくなっちまったからですよ。奴さん、東京に戻ったようです」
「片岡は懲役三年だそうだね。その程度だったんだ」

 尋ねたのは市太郎である。

「はい。会長に付き添われて自首しましたし、栄治君も思ったより軽いけがで済みましたしね」
「……それはそうとよ。俺はまだ事情を呑み込めてないんだが、あの晩、東二はなんで事務所に行ったんだ? 関わりたくないって言ってたろ」

 ああそれはと速田が言いかけた時、三人の後ろにいた文子が話し始めた。横には東二もいる。

「それはね。私が頼んだのよ。東二はね、前から私の所に来ていたの。小学校出てからずっと働いてるんで、勉強したいって。ただこの子も、いろんなことに手を出す割には、腰が据わらなくてね。なんか人生相談みたいになってたの。だからまずは困ってる人のために動きなさいって。そしたら手助けしてくれたのよ。ね」

 言われた本人は、しきりに頭をかいている。

「……いや、まあ、そういうことかな」
「なんだ、やるときゃ、やるんだな、お前もよ」

 そう言って東二の脇を肘でつつくと、北修はテーブルの向こうにいた武志と義雄を指差した。

「でもあいつらとおんなじで、腰はすわってないとよ」
「えー、なにそれ。待ってくださいよ」

 武志がそう言うと、東二が下を見てくくっと笑った。

「あ、そういう態度が癇に障るんだよ。お前、俺らよりいっこ下なんだからさ」
「まあ悩み多き若者たちよ。しょっちゅう喧嘩をしている小熊と俺も、友達ちゃあ、友達だしな」
「そういや小熊さん、東京どうなんですかね?」

 速田にビールを勧めながら義雄が尋ねた。

「うーん、旭川を発ったのが、騒動の直後だからなあ。北修さんには便りはないの?」
「来ないことはないが……。ここにいない奴の事、話したって仕方ねえべ。それより主賓の話しようぜ。ねえ神田館の大将」
「そうだよね。わたしも聞きたいのよ。どこで働いているかとかさ」
「あー、私もそろそろと思ってました」

 速田はそう言うと、グラスを置いて再びステージに上がった。あちこちで談笑していた皆が気づいて視線を向ける。

「皆さん、それではここで、主賓である栄治君とハツヨさんからご挨拶をいただきたいと思います」

 え、俺らですかと戸惑う二人を、速田が促す。

「その通り。さ、こっちへ」

 栄治とハツヨの兄妹は、一連の騒動のあと、市内の借家で暮らしている。もちろん母親と一緒である。きょうはハツヨが青い縞のワンピース、栄治がグレーの背広姿。ともに新調したばかりだ。

 拍手に迎えられてステージに上った二人は、どちらから話すか迷ったが、まずハツヨが前に出てお辞儀をした。

「……皆さん、その節は本当にお世話になりました。……お話があったように、私は佐野先生の紹介で、洋服を扱う商社で働いています。まだ何もできませんが、そこで頑張って、いつか皆さんに恩返しができるようになりたいと思っています。なので、これからもよろしくお願いします」

 もう一度お辞儀をすると、大きな拍手が贈られた。

「じゃ。兄さん」

 落ち着いて挨拶したハツヨに比べ、栄治は傍目から見ても分かるほど緊張している。前に出たものの、なかなか話が始まらず、皆、ハラハラしながら見守っている。頑張れと声をかけられて、ようやく言葉が出た。

「……えーと、あの、俺も、あの佐野先生の紹介で、今、造り酒屋で働いてます。……それと、久しぶりに妹と暮らせて、お袋が喜んでるんです。……あの、俺も恩返しできるように頑張って、いつかは杜氏になりたいと思ってます。なので、これからもよろしくお願いします」

 二人が深々とお辞儀するといっそう大きな拍手が湧き上がった。その中にひときわ大きい北修のどら声が響く。

「よし! 二人とも良く言った! ……あれ、大将、泣いちゃってるよ」
「……だってさ。……年取ると、涙もろくなっちゃうんだよ」

 女給のなかにも、もらい泣きをしているものがいる。

「だから、しめっぽいのは止めようぜ。そうだ。お前ら、得意な奴あんだろ。あの歌、ヤマニのテーマ。やってくれよ」

 北修の言葉に、文子がすぐ反応した。

「え、それ私知らない。やってよ、聴きたい」

 女給たちは、顔を見合わせている。

「そうですか? やる?」
「いいじゃない。やろうよ」

 話が決まると、やはりショーの監督である速田が前に出てきて、指示を出す。

「じゃあ、みんなはステージに集まって。レコードはと、武志君、お願い」

 あっという間に準備が整った。


「それでは、ミュージック、スタート!」

 速田がそう告げると、女給たちが、リズム良く体を左右に振りながら歌い始めた。


そこ行く兄さん いなせな兄さん
素通りは許さないよ
きれいな姉ちゃん 待っているよ
お楽しみはこれからだ
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
さァ ようこそヤマニへ

 途中からは、その場にいた皆が声を合わせ始めた。中には肩を組んでいる者達もいる。

2枚目兄さん こちらへどうぞ
ビールにカクテル ウヰスキー
素敵なステージ 楽しい会話
コーヒーいっぱいでもかまわない
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
さァ ようこそヤマニへ

(原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)


 歌はなかなか終わりそうにない。



第十一章 昭和三年五月 嵐山(あらしやま)



  「銀の滴(しずく)降る降るまはりに、金の滴(しずく)
降る降るまはりに、」と云ふ歌を私は歌ひながら 
流(ながれ)に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になってゐて、昔のお金持が
今の貧乏人になってゐる様です。

                                                  (知里幸恵「アイヌ神謡集」より)


 北海道最大の盆地、上川盆地の南西の端は、大小様々な河川が石狩川にまとまり、遥か遠く海へと向かう出口に当たる場所である。

 その石狩川は盆地を出るとすぐ神居古潭(かむいこたん)の急峻な渓谷に差し掛かる。その手前には、北に嵐山丘陵、南に幌内(ほろない)山地の二つの山の連なりがある。川を神社の参道に見立てると、まるで狛犬のような鎮座ぶりだ。

 このうち北側、狛犬で言うと阿(あ)の位置にあるのが、丘陵の名前のもととなった嵐山である。標高は二百五十メートル余り。低山だが、カシワやカツラ、オニグルミやイチイなどの巨木が生い茂る森はうっそうとして深い。

 この盆地に長く暮らす上川アイヌは、この山を「チ・ノミ・シリ」、「我ら・祀(いの)る・山」と呼んできた。

 山は神々と人とをつなぐ聖地であり、それゆえこの地は彼らにとって「送り場」とされた。そこには、神の化身である動物の霊を神の国に送り出したあとの頭骨や、使えなくなった愛用の道具などが納められた。

 このアイヌの聖地を、参謀本部長を務める陸軍中将、小沢武雄(おざわたけお)が訪れたのは、明治二十一年の秋のことである。上川視察のため、札幌を発って石狩川を遡った小沢は、神居古潭の難所を越えると川の北側の山に登り、眼前に広がる景色に目を見張った。

「其の景観、西京(さいきょう)の嵐山(らんざん)に伯仲せり」

 嵐山の命名の由来である。


 小沢が京都の嵐山に比したその山中に、いま五人の若者がいる。先頭はアイヌの少年、東二、続いて栄治とハツヨの兄妹、義雄、少し遅れて武志。東二以外は手頃な太さの木の枝を杖代わりにしている。

 時折、チラチラと後ろを見ながら登っていた東二が足を止めた。

「武志さ、もう少し根性出したら」

「……おい、なんだよその言い方は。お前、俺らよりいっこ下だっていつも言ってんだろ」

 言い返しながら、息が切れかかっている。

「はー、しんどい」
「武志さん。しゃべりながら登ると余計きついわよ」

 ハツヨが吹き出すのをこらえながら言うと、義雄もちょっかいを出す。

「武志は普段から運動しなさすぎなんだよ。俺は頭脳派だとか言っちゃって。……でも東二はやっぱり山に入るといきいきするな」

 手ぬぐいで首のあたりを拭きながらうなずいたのは栄治である。

「まだ少し雪が残ってるってのに、ほっといたら、駆け上っていきそうな感じだもんな。……でも、やっぱり山は気持ちがいい」
「本当ね。たいへんだけど来てよかった」
「さ、あと少し」

 東二の声を合図に、五人は再び山道を登り始めた。

 この時期の嵐山は岩陰などを除けばほぼ雪も解けている。若葉を付け始めた樹々の間には、カタクリやエゾエンゴサクが咲き始めている。十五分ほど進んだところで、視界の開けた場所に出た。頂上付近では、この辺りが最も見晴らしが良いと東二が説明した。

 見ると、少し霞がかかっているが、眼前にはうねるように流れる石狩川があり、その先に旭川の街が広がっている。そしてさらにその向こうには、残雪をいただいた大雪山連峰の山々がそびえ立っている。

「……すごい。旭川の街が全部見えるのね」
「山が輝いているみたいだ。……そうか、こんなふうに見えるんだ」

 東二に促されて前に出たハツヨと栄治が感嘆の声を上げた。義雄と武志も魅了されている。

 しばらく噛みしめるように景色を眺めていたハツヨが、隣にいた義雄に顔を向けた。

「……義雄さんは、しばらくの見納めね」
「うん、そうだね」
「どうして師範学校やめて東京に行くことにしたの?」

 義雄はうーんと言って、少し考えると顔を上げた。

「……うまく言えないけど、そうするべきだって思ったんだ。向こうに行ってとりあえずは詩や小説を書く。たぶん大学への編入も認めてもらえると思うしね。……旭川は、ふるさとだけど、一度離れることが必要だって。で、武志に言ったら賛成してくれたんだ、なあ」
「うん、自分がそう思うんなら、いんじゃないって。けど俺は行かないよって。前だったら、東京かっこいいな、俺もって言い出したと思うんだけど。……ほら、俺、いっぱい挫折してるからさ。くじけそうな奴、励ましてやれるんじゃないかって。だから、このまま旭川で教師になろうって」
「……ということなんだわ。だからみんな、武志をよろしくね。誰かがネジ巻かないと、こいつ怠けるし」

 そう言って肩に手を置くと、武志が口を尖らせかけた。と、ハツヨがすぐに反応する。

「わかってます。頼まれないでも、怠けてたらお灸すえるから。ね、兄さん」
「うん。ハツヨはね、もともとものすごいおせっかい焼きなんだ。きっと、ちょくちょく様子を見に行くと思うよ」
「えー、ちょっとみんな勘弁してよ」

 そう言いながらも、武志はうれしそうだ。

 その四人のやり取りを、東二は少し離れたところで聞いている。義雄が声をかけた。

「で、東二はどうするの? 最近、顔を見ないって佐野先生が言ってたけど」
「ああ、今、木彫りの仕事でコタンにこもりっきりなんだ」

 家に作業場を設けて本格的に制作に取り組んでいるという。

「ということは、売れてるってことかい?」

 栄治が聞くと、白い歯を見せた。

「うん、まずまず評判がいいんで、仲間にもやり方を教えてるんだ。そしたら作りたいって奴が増えて。で、木彫りでみんなが飯食えるようになればいいなって」

 この熊の木彫りは、のちに北海道を代表する観光土産となり、アイヌの人々の貴重な収入源となる。

「そっか。私と兄さんは仕事があるし。じゃ、みんな進む道は決まったってわけね」

 ハツヨがそう言ったところで、武志が街の方向を指した。

「見ろよ。さっきより晴れてきた」

 目を向けると、先程までの霞は消え、太陽(ひ)の光に照らされて川面がキラキラと光っている。その様子に目を向けながら、義雄が武志に語りかけた。

「……この三年半、いろいろあったよな。美術展の手伝いがきっかけで、北修さんや小熊さん、東二と知り合ってさ。ヤマニにも行くようになって……」
「史さんや佐野先生と会って。アナキストと右翼の騒動に巻き込まれて。ハツヨちゃんと栄治さんにも会って……」
「本当にいろんなことがあって、その全部が混ざり合って……。自分はまだ何者なのかは分からないけど。そういうことがあったから、新しいところに飛び込んでゆく勇気を持てたのかのかもしれないなって……。そう思うんだよな」
「うん、そうかもな」

 その時、静かだった山に、聞き覚えのあるどら声が響いた。

「おお、いたいた、やっと追いついた」

 木立の中から現れたのは北修である。直ぐ後ろに、長身の北修をさらに上回る背丈の白人の少年。その少年はおかっぱ頭の女の子の手を引いている。

「え、北修さん、こんなところにどうしたんすか?」

 武志が目を丸くする。

「お前らが嵐山に行ったって聞いたから、追っかけたんだよ。あー、しんど」
「彼は?」
「あれ、知らないか? 八条通で喫茶店やってるスタルヒンの一人息子さ。俺、この子に絵教えてやってるのよ」

 紹介された青い瞳の少年は、小学校の制服を着ている。ただ丈はかなり短い。

「ヴィクトルです。十一歳です。日章小学校に通ってます」
「え、小学生! そんなに大きいのに?」

 ハツヨが口の手を当てた。

「はい。よくみんなに言われます」

 武志は少年の周りをぐるぐると回っている。

「すげえな。絵習ってるって言ってたけど、運動は?」
「はい、野球の投手やってます」

 と、横にいた少女が武志に向かって言った。

「あのね、おにいちゃん。あんまり人をジロジロ見るのは失礼なんだよ」
「あー、ごめんごめん。あんまりいい体なんでつい」

 武志は頭をかくと尋ねた。

「この子は?」
「ああ、この子はな、綾子っていうんだ。嵐山に行くって言ったら、親から連れてってやってくれって言われてさ。ヴィクトルと交代でそこまでおんぶしてきたのよ」

 ハツヨは意志の強そうな面差しのその子を、ひと目見て気に入ったようだ。

「お嬢ちゃん、綾子ちゃんて言うの?」
「うん、綾子。堀田綾子」
「いくつ?」
「五歳」

 栄治もハツヨの隣にしゃがみこむ。

「綾子ちゃん、何をするのが好きなの?」
「ご本を読むことです」
「そうか。まだ小さいのにご本か。人にちゃんと意見するし、偉いね」

 少女がはにかみながらありがとうと言った時、北修がふところから一通の封書を出し、義雄に渡した。

「……おっと、これ、忘れるところだった。小熊から、お前に」
「え、小熊さん? 何ですか?」
「義雄が東京に出るって話聞いたみたいで、送って来たのさ。はなむけの詩だってよ。あいかわらず、やることが気障だな、あの菊頭はよ」
「ありがとうごいます。……ここで読んでもいいですか?」
「ああ、お前宛てなんだから、好きにしな」

 義雄が封を開けて読み始めると、武志ら四人が集まってきた。


               ***


 封書の中には、東京で待っている云々、と短く書かれた便箋が一枚と、原稿用紙三枚に渡って書かれた詩が入っていた。


新しいものよ、
あらゆる新しいものよ、
正義のために生れた
さまざまな形式を
わたしは無条件に愛す、
然も、君が青年としての
情熱をもつて
ふりまはす感情の武器であれば
それが如何なるもので
あらうとも 私はそれを愛し、信頼す。
私はおどろかない、
君の顔に
よし狡獪(こうかい)な表情が現れようとも
私は悲しまない、
君の行動に
臆病さがあらうとも
若し、それが君を守るものであるならば、
ましてや君の若い厳粛さと
青年の勇気は
なんと新しい時代の
蠱惑(こわく)的な美しさをもつて
相手に肉迫してゐることだらう
青年よ、
我々は環視の只中にある、
あらゆるものに見守られてゐる。
熱心に祈りの叫びをあげながら
現実のつらさに眼を掩(おお)つてゐる君の老いたる父や母にもー、
吐息を立てゝゐる兄や妹にもー、
これらの身近なものは君を守る
だがとほくのものは 
ただおどおどとしてゐる許りだ。
信じたらよい
君は夢の中の物語りをもー。
君のみる夢のなんと喜びに
みちた感動の彩りをもつものよ、
我々はしってゐる
青年は青年の夢が
どのやうな性質の
ものであるかといふことをを、
ふるへよ、
君の肉体を、
護れ、
君の感情を
そして君は入つてゆけ
もつとも旋律的な場所へ、
老いたるものにとつては
苦痛の世界であるが、
我々青年にとつては
感動の世界で、ある処へ。

                   (小熊秀雄「青年の美しさ」)


その詩は、長く義雄たちの宝物となった。              


              ***


(夢の続き、あるいはその後の物語・実在の人物その二) 



ヴィクトル・スタルヒン……

旭川中学に進み、野球部のエースとして活躍したが、昭和8年、父親が殺人事件を起こしたことが原因となり、中退して日米野球のため結成された職業野球団に加わる。その後、黎明期のプロ野球で活躍し、日本初の300勝投手となる。昭和32年、自動車事故を起こして死亡。まだ40歳の若さだった。

堀田綾子(三浦綾子)……

大成(たいせい)小学校から市立高等女学校に進み、小学校教員となる。戦後は、結核で長期療養を強いられる。同じクリスチャンの三浦光世(みうらみつよ)と結婚した綾子は、昭和39年、故郷旭川を舞台にした小説「氷点」が懸賞小説公募に入選、ベストセラー作家となる。その後も、平成11年に77歳で亡くなるまで、数々の名作を発表し続けた。

町井八郎……

昭和4年、北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうちたけお)とともに発案した第1回慰霊音楽大行進を実現させる。これを契機に、同年、旭川吹奏楽連盟を創設し、理事長に就任する。こうした活動から「旭川音楽界の父」と称された。昭和51年、76歳で死去。

田上義也……

札幌を拠点に活動を続け、独自の美意識に基づく多彩な住宅、店舗、公共施設を道内各地で設計した。音楽分野では、バイオリニストとして、ピアノとチェロとのアンサンブル、北光(ほっこう)トリオで活動したほか、昭和12年には札幌新交響楽団を創設し、初代指揮者を務めた。平成3年、92歳で没した。

竹内武雄……

昭和4年、町井八郎(まちいはちろう)とともに第1回慰霊音楽大行進の実現に尽力する。昭和7年から旭川市選出の道議会議員を1期務めたあと、富良野市に転出。富良野時代には、長年、国鉄富良野駅で自ら考案したまんじゅうの立ち売りを行い、「元道議さんのまんじゅう売り」として人気を集めた。

加藤顕清……

精力的に創作を続け、帝展や日展などに作品を発表する。戦後は日本彫塑会会長に就任するなど、日本の彫刻界を代表する存在となる。生涯に渡って北海道、旭川とのつながりは深く、昭和初期には熊の木彫りを学ぶアイヌの若者の指導に当たった。昭和41年、71歳で死去。

鈴木政輝……

9年間に及ぶ東京生活を打ち切って帰郷した政輝は、昭和9年に旭川で詩誌「國詩評林(こくしひょうりん)」を創刊する。さらに2年後には北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなる。その後は、文芸に加え、父母から受け継いだ茶華道の教授としても活躍した。昭和57年没、77歳だった。

今野大力……

東京では、プロレタリア文学運動に加わるとともに、左翼系文芸誌の編集に携わる。昭和7年、当局により検挙され、激しい拷問を受けて半年余りの療養を余儀なくされる。作家、壺井栄(つぼいさかえ)や宮本百合子(みやもとゆりこ)らの支援で回復したものの、再び結核のため病床につき、昭和10年に死去した。31歳だった。

小池栄寿……

長く教師を務めながら詩作を続ける。昭和38年、小熊秀雄らと交流した大正末から昭和初期にかけての日々を綴った手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。同手記は、郷土史の貴重な史料となっている。晩年は千葉県に住んだ。平成15年、97歳で死去。

酒井廣治……

歌人として活動のほか、北海道詩人協会の創設に参加するなど、幅広く旭川の文化活動の振興に努める。その一方で、昭和16年に旭川信用組合組合長、昭和26年に初代旭川信用金庫理事長に就任するなど、経済人としても地域を牽引した。昭和31年、61歳で死去。

佐藤市太郎……

経営した活動写真館は、最盛期の大正末には全道で10館以上を数える。しかしその後は押し寄せた不況の波や、相次ぐ経営館の火事が影響して事業は縮小を余儀なくされる。その一方、さまざまな社会事業に関わり、昭和17年の死去の直前まで市議会議員を務めるなど、地域の名士であり続けた。

佐野文子……

戦前は、廃娼運動に加え、苦学生への援助などの社会貢献を続ける。また国防婦人会旭川支部長としての精力的な活動により、軍の要請を受けて上京、東条首相の私邸で家庭教師を務める。戦後も、戦災孤児の救済などさまざまな社会活動に奉仕した。昭和53年、84歳で死去。

速田弘……

昭和8年、ヤマニの近くに、新機軸の店舗、パリジャンクラブを開店するが、戦時色が強まる中で経営は悪化。借金の返済に行き詰って自殺を企てる。一命を取り留めた速田は、旭川から姿を消すが、戦後、東京銀座で高級クラブの嚆矢「シローチェーン」を成功させ、実業家として華々しい復活を果たす。

高橋北修……

昭和6年、旭川の画家として初めて帝展に入選する。以来一貫して故郷で活動を続け、地元画壇を牽引した。大雪山を描いた油絵を数多く描き、「大雪山の北修」と呼ばれる。昭和37年、脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残ったが、左手に絵筆を持ちかえて創作を続けた。昭和53年、79歳で死去。

小熊秀雄……

上京後の小熊は、虐げられた人々への共感を表す長編詩などを精力的に発表する。昭和10年には、2冊の詩集を相次いで出版、詩人としての地位を確立する。しかし、プロレタリア文学運動に接近していた小熊は、戦時体制の強化に伴って次第に発表の場を失い、生活は困窮を極める。昭和15年、肺結核により39歳で死去した。



(夢の続き、あるいはその後の物語・架空の人物) 



片岡愛次郎……

模範囚であったことから2年後に仮出所するも、生きる目標を失い、無益な日々を過ごす。そうしたなか看護助手の女性と知り合い結婚、妻は片岡の内面を愛情で潤し、彼は劇的に生きる希望を蘇らせる。結婚後に勤めた老人福祉施設では、入居者や家族を献身的に支えた。昭和56年、80歳で死去。

梅原竜也……

常盤橋での乱闘事件により、特高警察に居所が知られた事から、旭川を脱出し、東京経由で関西方面に身を隠す。2年後、大阪に潜伏中、アジトを特高に急襲される。追い詰められた梅原は、アジト裏の川に飛び込んで逃亡を図るが、溺れて死亡。28年の生涯だった。

松井東二……

旭川のアイヌの間で盛んになった熊の木彫りは、その後の民族自立運動の資金源ともなった。戦後は、後進の指導に当たる一方、アートとしての木彫作品の制作にも幅を広げ、各地の公共モニュメントの作成にも携わった。昭和55年、70年の生涯を閉じた。

江上栄治……

造り酒屋で修業を積み将来を嘱望されたが、昭和13年、召集を受けて陸軍第七師団に入営する。翌年、勃発したノモンハン事件で現地に出動。ソビエト軍との交戦中、戦車による砲弾の直撃を受け死亡した。29歳の若さだった。

江上ハツヨ……

繊維商社で働いた後、独立し、旭川市内で洋品店を始める。戦時中は物資不足から苦しい経営を強いられるが、戦後、生活雑貨を扱う会社を立ち上げて成功。旭川を代表する女性経営者となる。一方、戦災孤児の兄妹を養子、養女とし、経営者からの引退後は彼らが事業を受け継いだ。平成6年、84歳で他界。

塚本武志……

師範学校卒業後、教師となり、旭川市内の小学校に勤める。多くの子供から慕われた武志は、25歳の時に同僚教師と結婚、しかしまもなく結核を発症し、入院生活に入る。手術を受けて、一時、職場復帰を果たしたが、再び病状が悪化。昭和15年に死去。31歳だった。

渡部義雄……

編入した大学を卒業後、東京の新聞社に勤め、戦時中は従軍記者も経験する。終戦後は軍国主義の強化に加担したとの思いから新聞社を退社。旭川に戻って市役所に勤めながら、詩や短歌、小説などの創作活動を続ける。昭和39年、旭川市立図書館長に就任。平成13年、91歳で死去した。



(終わり)



<注釈・第十章>


* 百田宗治・ももたそうじ
・ 「どこかで春が」などの同様で知られる大阪市出身の詩人、児童文学者。北海道への疎開経験がある他、一時、旭川の隣の愛別町安足間(あんたろま)に移住を決意するなど北海道と縁が深い。

* 旭川を発ったのが、騒動の直後
・ 実際の小熊の上京は、1928(昭和3)年6月のこと。


<注釈・第十一章>


* 嵐山
・ 旭川中心部から西に約5キロの景勝地。旭川八景の一つ。昭和40年には風致公園として整備され、野草園や遊歩道などがある。展望台からは夜景も楽しめる。

* 知里幸恵・ちりゆきえ
・ 登別生まれで、旭川に移り住んだ。1918(大正7)年、アイヌ語研究のために訪れた金田一京助(きんだいちきょうすけ)と出会い、民族に伝わる叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。上京後、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病の悪化により19歳の若さで急逝した。

知里幸恵

* 「アイヌ神謡集」
・ 知里幸恵がまとめ、死の翌年発刊された。アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、日本語訳をつけており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と評価されている。

* 小沢武雄・おざわたけお
・ 元小倉藩藩士。明治になって陸軍に入り、1885(明治18)年、中将となる。陸軍士官学校長、参謀本部長などを歴任した。

* スタルヒン(ヴィクトル)
・ 帝政時代のロシアに生まれ、ロシア革命により国を追われ、両親とともに日本に亡命した白系ロシア人。旭川に来たのは1925(大正14)年、9歳のときだった。

ヴィクトル・スタルヒン

* 8条通で喫茶店
・ スタルヒン一家が8条通8丁目で経営していた喫茶「白(しろ)ロシア」のこと。この店について、新旭川市史は「1929(昭和4)年頃の開業であろう」としている。このため、実際にはこの時期には存在していない可能性が高い。

白ロシアの店内(昭和4年)

* 「この子に絵教えてやってるのよ」
・ 実際に北修は旭川時代のスタルヒンに絵を教えていた。スタルヒンが絵描きになりたいと言い出したときは、野球をやったほうが良いと諭したという。

* 日章(にっしょう)小学校
・ 1893(明治26)年、忠別(ちゅうべつ)小学校として開校した旭川で初の公立学校。漢字1字の学級名を伝統としていることでも知られる。

日章小学校(昭和2年)

* 堀田綾子・ほったあやこ
・ 堀田は、小説「氷点」で知られる旭川生まれの作家、三浦綾子の旧姓。

* (旧制)旭川中学
・ 現在の北海道立旭川東高等学校の前身。1903(明治36)年、北海道庁立上川中学校として創立。1915(大正4)年に旭川中学校と改称した。

旭川中学(昭和3年)

* 大成(たいせい)小学校
・ 1900(明治33)年に開校した旭川市中心部にあった小学校。

* (旭川)市立高等女学校
・ 1915(大正4)年の創設。名称は数回変更されているが、1951(昭和26)年に閉校した。

市立高等女学校(昭和8年)

* 三浦光世・みうらみつよ
・ 長く闘病生活を送った妻、綾子の作家活動を、口述筆記など献身的な姿勢で支えた。

* 「氷点」
・ 三浦綾子の出世作。1963(昭和38)年に朝日新聞社が公募した1000万円懸賞小説の入選作。新聞連載後に刊行され、ベストセラーとなった。映画のほか、数度に渡りテレビドラマ化されている。

* 旭川吹奏楽連盟
・ 町井八郎、竹内武雄らの尽力により、1929(昭和4)年6月、第1回慰霊音楽大行進が行われたのを契機に同年発足した。全日本吹奏楽連盟の創設はその9年後であり、旭川の先駆性がわかる。

* 音楽大行進
・ 1929(昭和4)年に始まった音楽の街、旭川を代表するイベント。吹奏楽、マーチングバンドなど約4000人が参加し、全国屈指の規模を誇る。

第1回慰霊音楽大行進(昭和4年)

* 北光(ほっこう)トリオ
・ 音楽家としても活躍した北海道建築の父、田上義也(たのうえよしや)が、大正から昭和にかけて参加していたバイオリン(田上)、チェロ、ピアノのアンサンブル。道内各地で演奏会を開き、旭川でも度々演奏している。

* 札幌新交響楽団
・ 戦前に、田上義也が中心となって設立したオーケストラ。

* 帝展(文展・日展)
・ 現在の日展(日本美術展覧会)につながる帝国美術院展主催の公募展。1907(明治40)年に始まった文展(文部省美術展覧会)のあとを受け、1919(大正8)年から毎年開かれた。

* 「國詩評林(こくしひょうりん)」
・ 故郷、旭川に戻った鈴木政輝が、1934(昭和9)年に創刊した詩誌。政輝が考案した「七行定形詩」という独自のスタイルの実験の場ともなった。

* 北海道詩人協会
・ かつての旭川は、北海道を代表する詩の街であった。1936(昭和11)年設立の北海道詩人協会は地元詩人を中心に旭川で発足している。協会は「北海道文学」と題した機関紙も発行していた。

北海道詩人協会総会(昭和11年)

* 壺井栄・つぼいさかえ
・ 香川県出身の小説家。夫はプロレタリア詩人の壺井繁治(つぼいしげじ)。代表作「二十四の瞳」は映画化され、ヒットした。

* 宮本百合子・みやもとゆりこ
・ 東京生まれの小説家、評論家。1932(昭和7)年、のちに日本共産党中央委員会幹部会委員長、議長となる宮本顕治(みやもとけんじ)と結婚。戦時中は執筆禁止や投獄などの弾圧を受けた。

* 「小熊秀雄との交友日記」
・ 大正末〜昭和初期の自身の日記を元に発表された手記。連日のように互いの家やカフェーなどに集まって芸術談義を繰り広げる当時の旭川の若き文化人の様子が詳述されている。

* 旭川信用金庫(旭川信用組合)
・ 凶作の影響により疲弊した地元商工業者の苦境打開を目的に、1914(大正3)年に発足した旭川信用組合が前身。1951(昭和26)年に信用金庫となった。

旭川信用組合(昭和2年)

* 国防婦人会
・ 正式には大日本国防婦人会。1932(昭和7)年に全国組織が発足し、出征兵士の慰問や家族の支援などを行った。白の割烹着にタスキ姿が会服。

* 東条首相
・ 太平洋戦争開戦時の首相の東条英機(とうじょうひでき)のこと。陸軍大将でもあり、当時は内相と陸相を兼ねた。

* パリジャンクラブ
・ カフェー・ヤマニの速田弘が4条通7丁目に開店した店舗。カフェー、レストラン、喫茶を合わせたような独自のコンセプトで、名建築家、田上義也が設計した斬新なデザインが特徴だった。

パリジャンクラブ

* 特高警察
・ 特別高等警察の略。社会運動や思想活動の取締を目的に、戦前の警察組織に設けられた。

* ノモンハン事件
・ 1939(昭和14)年、旧満州とモンゴルの国境地帯で起きた日本軍とソ連軍との軍事衝突。機械化されたソ連軍の攻撃に、日本軍は大敗した。当時、満州派遣中だった旭川第七師団でも多くの死傷者が出た。

* 従軍記者
・ 軍隊について戦場に行き、戦況を報道する新聞社や放送局、雑誌などの記者のこと。














いいなと思ったら応援しよう!