ヤマニの兄貴 速田弘
今回も別のブログなどで既出の記事をアップデートのうえ掲載する「蔵出し」です。
地域の歴史を調べていると、「へー、こんな人がいたんだ」と思える魅力的な人物に出会うことがあります。
旭川には、そんな人物が本当に多い!
そう思うのは、親バカならぬ地元っ子バカ、なのかもしれません。
でも「もっと昔に生まれて、お付き合いしたかった」と思える人物が本当に多いのです。
今回はそんな一人、旭川の人気カフェーの名物店長で、マルチな才能を発揮した速田弘(はやた・ひろし)のお話です。
しかも彼、戦後は東京銀座でも高名な実業家にのし上がっていました。
それではどうぞ。
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◆ カフェー・ヤマニ
まずはこちらの写真を。
画像01 昭和5年の旭川4条十字街(旭川市中央図書館蔵)
昭和5年、旭川の中心部、4条通7丁目にあった旭ビルディングから撮影した写真です。
て交差点に面した8丁目左の角にある建物。
大正から昭和初期にかけて人気を集めたカフェー、ヤマニです。
画像02 カフェー・ヤマニ(画像01拡大)
このヤマニの2代目経営者として活躍したのが、当時、モダンボーイと称された速田弘です。
当時の新聞記事に載った写真がありますので、掲載します。
画像03 速田弘(1905−?)
この人物、一介の飲食店経営者ではあるのですが、旭川の歴史について触れた本の中に幾度となく登場しています。
このうち旭川出身の作家、木野工(きの・たくみ)は、次のように書いています。
「大正十二年には四条八丁目左一号、今の『たぬきや陶器店』のところに『バー・ヤマニ』が改装出現し、その隣り四条八丁目左二号には相次いで『アボQ喫茶部』が開業している」
「『アボQ』と『バー・ヤマニ』をやっていた速田さんは、いつも一時代先を見通していた新しい感覚の持ち主だった」(木野工「旭川今昔ばなし」より)
ヤマニは、速田弘の父親、仁市郎(にいちろう)が明治44年に創業した食堂が前身です。
そのヤマニが改装してカフェーとなったのは、木野が書いているように大正12年のことです。
3条通7丁目の「ライオン」、3条通8丁目の「ユニオンパーラー」と並んで、旭川のカフェーの走りでした。
冒頭の写真と同じ場所から撮影した写真に、改装前のヤマニが写っています。
2枚を見比べますと、食堂からカフェーへと華麗な転身だったことがよくわかります。
画像04 大正11年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)
さて大正末期の旭川中心部に華々しく登場したカフェー・ヤマニですが、とにかく次々と新機軸を打ち出して地元っ子を驚かせたようです。
その一つがこちら。
画像05 旭川新聞の記事(大正14年6月7日)
大正14年の記事です。
この年3月、東京で始まったばかりのラジオ放送。
その受信免許をいち早く取って市民に公開したんです。
さらにこちらの広告。
画像06 ヤマニの広告(昭和6年3月19日・旭川新聞)
開業20周年(食堂時代も含め)にちなんだ連続企画をPRする広告です。
字面だけですので、具体的にどのような内容のものだったかは分かりません。
ただ客を飽きさせないさまざまな趣向が凝らされていたようです。
◆ ヤマニの店主速田
こうした独自の営業活動の結果、ヤマニは旭川でのトップクラスの人気店としての地位を固めていきました。
その立役者が2代目店主の速田弘でした。
彼については、かつて新旭川市史の編纂に携わった北けんじ氏の著書に詳しく紹介されています。
そのなかで注目されているのが、そのPR力です。
「ちょっとその前に、コピーライターとしての速田弘に触れておきたいと思う。旭川新聞のコラム「赤い灯・青い灯」の一コマ・・・
○…ヤマニの兄貴速田君は、旭川カフェー営業者仲間でも年少者であり、モダンボーイであり???であるが、彼氏仲仲営業にかけては熱心だ。
○…本誌の広告文案のヒントを得るに寝食を忘れて苦心するそうナ。かくして『ヤマニの女子は人殺し女子云々』のめい文が生れる。彼氏はかやうなめい文を連発してカフェー党を嬉しがらせ誘惑し、自己陶酔してゐる。(旭川新聞・昭和6年5月16日)(中略)
とあるように、当時のカフェーの広告では一頭地を抜いている。エロ・グロ・ナンセンス プラス テロの時代の申し子というべき見事なコピーである。現在においてさえ衝撃であるかもしれない。それ程に切れ味がよく小気味いい。時代の先端を走っていたように思う」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)
ここで「ヤマニの女子は人殺し女子云々」とあるのは、昭和6年5月2日の広告を指しています。
画像07 ヤマニの広告(昭和6年5月2日・旭川新聞)
なるほど。
「何事か」とつい目を止めてしまう広告です。
カットの下には「ヤマニの兄貴作品№56」と記されています。
コピーだけでなく、カットも自作。
さらに「ヤマニの兄貴」という呼び名も自称だったのかもしれません。
その他にも彼は「ヤマニの大将」などとも呼ばれていたようです。
ちなみに同時期、同業他社もさかんに新聞広告を出しています。
ですがどれも個性に乏しく、速田広告の独自さが際立っています。
画像08 他店の広告(昭和6年10月4日・旭川新聞)
画像09 ヤマニの広告(昭和6年5月3日・旭川新聞)
画像10 ヤマニの広告(昭和6年5月13日・旭川新聞)
さらに速田がヤマニの喫茶部として開業した店、アボQについても、北氏はこう感心しています。
「ヤマニの隣りに黄を基調とした原色塗りの甚だモダンな建築の出現に道行く人は『薬屋でもできるンだろうか』といぶかんだという。そして大きな立て看板に『アボQ』とあるのでますます首を傾げて行人は、頭上の吹き出しの中に『?(ハテナ印)』をシャボン玉のように連続して飛ばしはじめる。そして、ここで『アボQ』なるネーミングの秘密が明かされる。A.B.Cuoというローマ神話のなかの幸福(殊に恋愛)の神なのだそうだ(中略)。
『アボQ』はローマ神話のなかの愛の女神の名前をちょっと怪奇性を加えてもじったものだったのである。名付親のモボ速田弘は客に『アボQ』の由来を訪ねられても明かさず、ただただ莞爾としていたことだろう」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)
ちなみに、このアボQ、昭和4年の旭川新聞のコラムに写真が載っています。
画像11 旭川新聞「街のスナップ」(昭和6年5月13日)
この写真を手掛かりにして探してみますと・・・。
ありました!
冒頭に掲載した写真の中に喫茶アボQも写っています。
画像12 昭和5年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)
画像13 画像12拡大
こちらの絵葉書には派手な看板が写りこんでいます。
画像14 昭和4年当時のヤマニ(絵葉書)
画像15 拡大すると、店の前に「アボQ」の看板が
画像16 支那そば、志るこ、ランチ、コーヒーなどの文字が見える
◆ 幅広い人脈とヤマニに集う人々
さて新進気鋭のカフェー経営者として独自の足跡を残した速田ですが、幅広い人脈を誇った人物でもありました。
有名なのが、建築家、田上義也(たのうえ・よしや)との関係です。
田上は栃木県出身。
帝国ホテルを設計した名建築家、ライトの弟子です。
大正12年に北海道に渡り、以来、北海道の風土に根差した数々の優れた建築を各地に残しました。
画像17 田上義也(1899−1991・ほっかいどう百年物語:北海道の歴史を刻んだ人びとー。第6集)
田上の研究者である北海道大学の角幸博名誉教授によりますと、旭川で田上が手掛けた建物は4棟に及びます.
そのうちカフェー時代のヤマニ、アボQ、そして昭和8年開店のカフェー兼レストラン、パリジャン・クラブの3つが速田弘の経営です。
こうした2人の深い関係については、音楽を通した交流が契機となっているというのが通説です。
実は、速田はチェロ奏者として、大正10年結成の弦楽アンサンブル、旭川共鳴音楽会に加わっていました。
また田上も建築の仕事のかたわら、プロのバイオリン奏者としても活発な活動を行っていた人でした。
旭川の古い文献に、速田を含む旭川共鳴音楽会のメンバーの写真が掲載されています。
最後列、左の人物が速田です。
画像18 旭川共鳴音楽会のメンバー(旭川回顧録)
一方、当時ヤマニやアボQは、地元の文化人のたまり場にもなっていました。
資料を拾ってゆきますと、速田弘とこうした人たちとの交流ぶりを垣間見ることができます。
その一つがこちら。
画像19 ヤマニの広告(大正14年5月6日・旭川新聞)
桜の季節に合わせて行われたイベントの案内です。
どうやら凝ったカラクリ装置を用意し、お客を楽しませたようです。
ここで「装置監督」として名前が上がっているのが、地元出身の画家、高橋北修(たかはし・ほくしゅう、広告では北州となっています)です。
北修は旭川生まれの洋画家として、はじめて帝展に入選した地元画壇の草分けです。
東京での修業時代、看板描きや舞台装置作りのアルバイトをしていたことがあり、その経験を買われたのかもしれません。
画像20 髙橋北修(1898−1978)
さらに旭川出身の詩人、小池栄寿(こいけ・よしひさ)が残した手記には、ヤマニに集う若者たちの様子が生き生きと描かれています。
その中には、旭川ゆかりの詩人で、池袋モンパルナスの名付け親、小熊秀雄(おぐま・ひでお)や、夭折したプロレタリア詩人、今野大力(こんの・だいりき)らがいました。
「(昭和二年)四月二十三日。午後七時、ヤマニ階上の文芸座談会(北海日日主催)へ、三十名位集まる。松崎豊作、藤田みはる等の猛者と、鈴木、小熊君との間に激論つづく。帰旭以来、初めて小熊氏に逢ふ。記念撮影、詩の朗読、短歌朗詠、寄せ書きなどして散会」
「六月二十八日。永井郁子女史の邦語歌詞独唱会、七時から商工会議所。九時終り。小熊氏、沢井一郎氏と師団通りへ。第二神田館前でソーダ―水。『ヤマニ』で生をやってゐると黒色青年聯盟の連中が入ってきて、新聞を悪く云ったがすぐ小熊さんと仲よくなる」(注・黒色青年聯盟はアナキストのグループ。新聞は当時小熊が勤めていた旭川新聞のこと)
「(昭和三年)三月三十一日。今野紫藻君が午後三時十分で上京す。師団通りで林檎五十銭を買って見送る。遅れそうになって走る。ようよう間にあう。小熊氏と塚田君が来ていた。帰りヤマニでコーヒー」(注・今野紫藻は今野大力のペンネーム)(いずれも「小熊秀雄との交友日記」より)
ちなみに、昭和2年6月の記述に関しては、酔った勢いでビールのコップを床にたたきつけるなどして騒いでいたアナキストたちが、店内で小熊を見つけ、「新聞はうそを書く」と言って絡み始めたのだそうです。
小熊は受け流していましたが、その後、リーダー格の男が出てきて仲間を静め、「いずれゆっくりとお話ししましょう」と丁寧に挨拶をして出て行ったとか。
映画のワンシーンのようなこの場面。
もしかしたらその場に店主、速田弘も居合わせていたかもしれません。
画像21 小熊秀雄(1901−1940)
◆ 挫折と復活
斬新な経営感覚とマルチな才能、広範な交友関係を武器に、大正から昭和にかけての旭川に新風を吹かせた速田弘。
ですが、その後は苦難の日々が続きました。
昭和8年、速田は満を持して新店舗パリジャン・クラブの経営に乗り出します。
パリジャン・クラブは、喫茶、レストラン、カフェの3つを合わせたような斬新なコンセプトの店です、
田上義也が設計した建物も、正面左手にガラス張りのらせん階段、その上に飾り塔が付いた斬新なものでした。
画像22 パリジャン・クラブの広告(昭和8年6月2日・旭川新聞)
画像23 パリジャンクラブの店舗(旭川市街の今昔 まちは生きている)
しかし昭和6年の満州事変の勃発以降、中国での戦線は拡大を続け、時代は急速に質素、倹約が尊ばれる風潮に覆われていきます。
昭和9年2月、速田は父の代から続いたヤマニを閉店。
パリジャン・クラブ一本に絞って経営の立て直しをはかります。
しかし事態が好転することはありませんでした。
そして12月2日。
経営の行き詰まりから多額の借金を背負った速田は睡眠薬を飲み、自殺を図ります。
一命を取り留めたものの、店は人手に渡り、速田は旭川から姿を消しました。
著名なカフェー経営者の破滅は、大きく伝えられました。
冒頭で掲載した速田の顔写真は、このときの記事に添えられたものです。
画像24 速田の自殺未遂を伝える記事(昭和9年12月・旭川新聞)
大正から昭和にかけ、旭川の一等地、4条十字街界隈を舞台にした速田の「冒険」は、このように終わりを迎えます。
では事業家、速田は「死んでしまった」のか。
実はその後の彼について、木野工が意外な事実を伝えています。
「結果から見ると、(速田弘が)旭川で創めた新感覚の事業は、時代を先取りし過ぎていて全て失敗した。しかし風俗文化の道を拓いた人であった。その精神が戦後の東京で花を咲かせ『シロー』という高級クラブ・チェーンをつくり上げた。『シロー』は最初、銀座の交詢社ビル地下に開かれたが、古風ながら重厚なビルのイメージが『シロー』のイメージに重なり超高級バー(クラブ)として凡百の飲み屋を蹴散らし、銀座繁華街を席巻した、いまは、フリーの客が自由に入れても、多少高級なバーは全て『クラブ』だが、この風俗営業『クラブ』を定着させたのは速田さんである)」(木野工「旭川今昔ばなし」より)
なんと速田の「冒険」は第2章があったというのです。
しかも成功譚として。
この記述については、北氏も「木野工は北海タイムスの東京本社にいたのであるから、『シロー』チェーンの情報はほぼ間違いがないであろうと思う」と書いています。
その見方をさらに裏付ける資料を見つけましたので、ご紹介します。
画像25 銀座年鑑
昭和30年版の「銀座年鑑」(銀座タイムス社)です。
中にある店舗名簿に木野が触れていた速田の店、シローが載っていました。
しかも日動シロー(銀座5条1丁目)、クラブ・シロー(同8条2丁目)、バー・シロー(同8条2丁目)、カジノ・シロー(同6条4丁目)と4店も。
画像26 「銀座年鑑」より
このうち日動シローの「日動」は、今も銀座にある有名な画廊、日動画廊と同じく、入居していたビル(日動海上ビル)から来ていると思われます(住所が同じ)。
またカジノ・シローは、木野が書いていた交詢社ビル(交詢社は福沢諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家の社交クラブ)と同じ住所です。
さらに昭和31年発刊の同じ銀座タイムス社の「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」には、こんな記述がありました。
「銀座会館、グランドパレス、アスターハウス、クラウン、日動シロー、キャンドル、美松などの一流どころから、一軒の小さな店を階上、階下、或は一階と地階にわけて営業しているささやかなバーに至るまで、銀座のカフエー、バーは。いずれも客の好みや、ふところ具合などでそれぞれ繁盛しているが・・・」(銀座タイムス社「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」より)
一方、「銀座年鑑」に戻りますと、当時銀座にあった業界団体の紹介ページにも速田の名前がありました。
画像27 「銀座年鑑」より
「銀座ソシアルサロン組合」は、昭和4年に結成された銀座のクラブやバー、キャバレーなどで作る業界団体です。
現在も社団法人「銀座社交料飲組合」として活動しています。
日本の盛り場の頂点に立つ銀座、その業界団体の副組合長になっていたのです。
速田弘が、どのような経緯で東京銀座に進出し、成功をおさめたかは、いまも取材中です。
ただ旭川時代に垣間見せた時代を先取りする感覚や、幅広い人脈を支えた人柄をかけて勝負に出たことは間違いないと思います。
旭川を振り出しに、挫折を乗り越え、大逆転勝利を収めた速田弘。
やはり痛快な人物です。(2014年11月初出をアップデート)