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これがほんとの自己紹介

リサ・ケイです。初回のnoteで自己紹介っぽいことやってますけど、(自己紹介って言えるのか?あれを)たぶんこっちがほんとの自己紹介。昔から考える性格ではあったけど、ちょっと前に人生の意味とか就活とかについてひたすらぐるぐる考えてなんか久々に病んじゃったよ。闇の谷底から早く抜け出したくて必死で書いた日記。とにかく元気になろうと思ってむりやり明るく締めてるけど、この問題提起は今もずっと未解決でわたしの心の中にある。殴り書きみたいなものだから、つたないとこもあるけどぜひ立ち寄っていって。リサ・ケイより。これがほんとの自己紹介です。

 この世界の全てに意味がないのだとしたら、わたしはどう生きたらいい?

 受験生だったころ、わたしにとって勉強がすべてだった。志望大学に合格することがすべての意味で、それ以外は考えなくてよかった。その時はその時で苦しかったし、勉強の他に何もできなくて窮屈だったけど、でも幸せだったと思う。勉強が好きだった。絶対的な目標と意味に向かって、すべてを犠牲にして頑張る自分が好きだった。

 大学に入ってから、わたしは漠然と勉強し続けた。だけどだんだん迷子になっていった。わたしはなんのために文学を学ぶのだろう?わたしはなんのために英語を勉強しているの?どうして?なぜ?なんのために?意義が壊れていく。勉強は好きだけど、あの頃のようなきらきらした輝きはなかった。わたしは無目的に勉強することができなかった、何かを頑張ることができなかった。一年生のころから漠然と持ち始めていた「なんのために」は、いつしか勉強以外にも広がっていった。わたしはなんのために本を読むのだろう?映画を見るのだろう?ピアノを弾くのだろう?絵を描くのだろう?わたしが自然と好きだったはずのものすべてを、空虚が覆い始めた。わたしは無意識に、すべてのものに意義を求めている自分を見つけた。起こっている出来事も、自分自身も、無意味なものとして捉えることができない。すべてはなんの脈絡もなく合理もなく流れているということ、それを自然なまま受け止めることができない。そしてわたしは自分がなぜ生きているのかという問いに答えられないことに絶望した。わたしはなんのために生きているのだろう?

 わたしは退屈していた。心の底から退屈していた。大学時代は人生の夏休みだなんて、そんなふうに思えないままだ。何をすべきかわからないまま、何をしたらあの頃の輝きを取り戻せるのかわからないまま日々は過ぎていく。どう生きたらいいかもわからないのに、年齢がわたしを急かす。考えることは山積みなのに。答えの出ていない問題がそこらじゅうに転がっているのに。

 何をやっても、それは気晴らしに過ぎないのだと近頃よく考える。低俗なことも高尚なことも、それらはすべて人生という意味のない時間の暇をつぶすに過ぎない。それはこの世界が豊かになった証拠であり、人々が生存の危機に脅かされることなく他のことに時間を費やせるようになったということだ。そしてそれこそが人間性であり、自由であるとある本には書いてあった。

 わたしは悲しき合理性の化け物なのだろうか。心ではそんな自分を責めるし、合理性とか効率化とかいうものは嫌いだ。そういった近代思想は20世紀に起きたさまざまな悲劇を止めることができなかった。西洋哲学の頂点に君臨するハイデガーがナチに加担したということは、西洋哲学がどこかしらで間違ったということである。間違った、という言い方はあまり良くなくとも、客観的に見て、西洋哲学はホロコーストの虐殺とか、核兵器の開発とかいうことを止める力にはならなかったということだ。そうして合理性や科学の信奉は現代の大量消費社会を生み出した。サイクルがどんどん早まる、流行が風のようなはやさで移り変わる。多様性という言葉が大手を振って歩いている一方で、たくさんの女性が目を二重にしようとする。何か変だ、何かおかしい、不健康で、不健全だ。心のどこかがそう言っている。みんなどこかでそう思っているんじゃないか、そう信じたいけれど。

 自然は意味も知らずただそこに在る。草木は自分が生きている意味など知らずにただ揺らめく。意味と意義を求める思想が招いたのがふたつの世界大戦とこの不幸な文明社会であるならば、わたしは「ただ在る」ということに目を向けなければならないのではないか。   
 目的がないということは怖い。この世界とか、人々が生きていることとか、人類が積み上げてきた歴史とかそういったものに究極的に意味がないのだと思うとき、わたしはあまりの恐ろしさに心臓が冷たくなるのを感じる。それでも神は死んでしまったし、合理的な思想は今もこの世界を支配している。だから受け入れなくてはならない。すべては気晴らしであり、すべてに意味はないのだということを。そしてそれが人間性であり、論理と合理に従う以外の生き方を、考え方を、わたしたちは模索する必要があるのだということを。

 わたしは浪漫的だから、こうは言いつつも世界がすべて無意味であるということを完全には受け入れられない。意味を求める思考が愚かなものであると思いつつも、わたしだけの人生の意味を求めてみたいという気持ちは心のどこかにあるし、歌とか詩とか、そういうものはやっぱりすばらしい。こう色々と考えを並べてみてもこんな無知なわたしではまだ答えは出ないだろうなという気持ちになるので、まだまだ勉強したいと思うし、本を読みたいと思う。時間のあるかぎり、わたしの存在する世界というものに手を伸ばし続けたいと思う、もっと知りたいと思う。たとえこの世界に意味などなくともこの世界は存在するし、わたしは生きている。わたしには好きなものがある、大事な存在がいる。答えは出ない、出るかもわからない。だけどこのままで生きていたい、探し続けながら生きてみたい。答えの出ないまま生きることを、納得できないまま存在することを認めたい。それで生きた先に、いろんなことを知った先に、新しい答えが見つかるかもしれない。見つからないかもしれないけど、それはそれでいい。わたしよ、わたしの赴く方へ生きろ。それが人間としての自由なのだから、意味がないということは、自由であるということの裏返しでもあるのだから。


 というのは壮大な前置きである。

 わたしは今自分の将来のことについて考えようとしたのであって、でも自分の生き方を考えるにあたって上の問題を放っておくわけにはいかないからああいうふうに長々と書いてみただけのことなのだ。だからそろそろ本題に入る。

 将来のことについて考えなくてはならない。「就活」が始まる。親は「ちゃんと考えなさいよ」と口々に言う。はいはい考えますよ、と答えつつも、自分の生きる方法とか、生きる指針も定まらないのに就職のことなんて考えられるか、とも思う。

 生に意味はないと言った。意味はないけれども、好きなものはある。やりたいこともある。それはもしかしたらわたしが逃げようとする意味とか意義とかと繋がっていない訳ではないのかもしれないけど‥。でも少なくともわたしは純粋にそれらを好きなつもりでいる。利害とかはなく。わたしの好きなものは、「なりたいわたし」と密接につながっている。それらを否定したくない。突き詰めてみたい、可能な限り。

 わたしの好きなものをあげてみようか。文学(本を読むこと)、音楽(音楽を聴くこと、歌を歌うこと、ピアノを弾くこと)、絵を描くこと、映像作品を見ること(映画、アニメ)、勉強すること(ジャンルは色々、言語とか)、メイク、ファッション。好きなものがあり過ぎて、自分がどの方向に進めばいいのかわからない。だけど抽象化するなら、わたしはなりたい自分になろうとしている、ということが言える。自分とはひとつの作品であるとわたしは考えている。メイクをして好きなお洋服を着て、と自分を外見的に表現するのは大好きだ。わたしが遅刻してまで身なりを整えて大学に行くのはそれがわたしの「なりたい自分」であって、理想だからである。また、わたしは言語を勉強することが好きだ。さまざまな言語をペラペラと操ることに憧れている。それもわたしの「なりたい自分」だ。自分が好きな自分であるということは、わたしにとって重要なんじゃないかと思う。

 そしてわたしが強く憧れていることは、自分で新たな世界を創造すると言うことだ。世界とはつまり作品のことで、映画でも小説でも歌でも、わたしは一から何か自分でオリジナルなものを作ることに強い憧れを抱いてきた。自分の世界が具現化してあるということはどれだけ素敵だろうかと考えてきた。その表現方法として、わたしは小説を書こうと思った。

 小説を書くのはなかなか難しい。あと面倒くさい。わたしは書こう書こうと思いながら何度も中断している。しかし人によって作られたものに触れるたびに「わたしもやりたい!こうなりたい!やらなくては!」という気持ちになる。わたしは「小説を書く」という行為にとりさらわれる。だから「小説を書く」ということがわたしのやりたいことなんだろう。これは意味とかどうこう関係なく、多分書かずに死んだら後悔するから書くのだ。なんとなく明るい気持ちになってきた。どういう自分になりたいか、だ。問題は。

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