私の死ぬまで日記 15日目

今日は久しぶりに純粋に人と関わった。

コロナで自粛期間なのに室内楽のメンバーで合わせをして一生にチーズダッカルビを作ってお酒を飲んだ。午前中にしっかりと起きて行動したのはいつぶりだろう。普段こんなにしんどい生活をしていたのか、と思い躁状態の自分が少し怖くなった。

純粋にずっと笑ってずっと楽しかった。タバコも吸った。気分が少し晴れた。

躁鬱の怖いところって鬱よりも躁の方が理解されないし躁状態を自覚することが難しいことだと思った。3ヶ月ぐらい前に室内楽に誘われて参加したり実技を増やしたり沢山新しいことに挑戦しようとした。じっくりと考えればそんなの両立出来るはずがないのにやる気に満ち溢れて仕方がなかった。

躁状態の時にやる気のままに挑戦しだした室内楽の存在は私の中で現在の鬱を加速させる存在だった。何もしたくないのに何かしないと周りに迷惑をかけてしまう。個人で練習をしなかったりすることは自分にしか被害はないから。現に今日は全く弾けなかった。それでも何の事情も知らないのに笑いながら「大丈夫だよ」って言って一緒にご飯食べてくれて人間の温かみに触れた。

色々なことに興味津々になって沢山のことに挑戦しようとすることは悪いことではないのは分かる。やる気に満ち溢れてるって素晴らしいことなのになんでその状態にあることを自覚できないのだろうか。分からない。鬱は分かりやすい。自分で気付く。

躁鬱は怖い。自分が分からないから。何をしでかしてしまうか分からない。

昨日書くことを伏せたが、私は境界性パーソナリティ障害という精神疾患を患っている。とても大切な人をわけも分からず殴ってしまったりする。意味がわからない。同じ人間だとは思えない、と言われた。当たり前だ。

たくさんの精神疾患を患ってしまったが、それを理由にしては甘えになってしまう。でも自分でどうしようも出来ない部分も出てくる。どうやって向き合っていくのが正解なのだろうか。

私はなぜだか分からないが自分が上手く向き合って正解を導き出せる自信が無い。いつも何か間違えてしまうから。自分自身根本に自信が無い、というのもあると思う。成功するイメージが掴めない。これからも辛い思いをする自信がある。だから死にたい。生きていてもいいことがあると思えないから。そのいいことが辛いことを上回るとは思えないから。何故人は他人が死ぬことを止めるのだろうか。

死にたいって思うことの何が悪いのだろうか。実際にそれを行動に移すと何故ダメなんだろう。死にたい。早く死にたい。頑張ろうって思うことが怖い。もしかしたら気付かぬうちに躁状態になって暴走して後悔してしまうから。頑張りたくない。頑張る必要が無いことはわかっている。私は自分のことを根が真面目でとてもピュアだと思う。何でも鵜呑みにしてしまう。どうやったら頑張らないことができるのだろう。

生きる価値を見いだしたい。今のところ分からない。人に優しくしたい。永遠のテーマだ。強くなりたい。

長々と失礼しました。おやすみなさい。

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